105話「"匂い"」
ディバルド大公の、搾り出すような願い。
私は、その言葉の裏にある"父としての愛"の重さに圧倒されながらも、硝子の瞳を真っ直ぐに彼へと向けた。
「……分かりました。ディバルド陛下。不肖の身ではありますが、あなたの願い……リゲル皇太子の心を救う手伝いを、させていただきます」
「……そうか、面倒事を押し付けて、すまぬな」
私が頷くと、ディバルド公は安堵したように、枯れ木のような手で自らの胸を撫で下ろした。だが、私の心にはまだ消えない疑問が残っている。
「ですが……具体的にどうすればよいのでしょうか。まずはタニア様を目覚めさせるのが先決かと思いますが、皇太子はそれを拒んでいます」
そう、そこが問題なのだ。
タニアが眠り続けている限り、リゲルには選択肢が生まれてしまう。まずはそれを、潰す必要があるだろう。
「……陛下、失礼を承知で申し上げますが、この国の頂点は今もあなたのはず。あなたが声を発し、タニア様の目覚めに協力していただくことは――」
私の指摘に、ディバルド公は力なく目を伏せ、首を振った。
「理屈ではそうじゃな。……だが、ノクティアよ。ここはガーランド――力と誇りが全てを支配する騎士の国じゃ。病床で声を枯らす老人の言葉一つで、現場で血を流す騎士たちや、狂気にも似た情熱で国を回すリゲルを納得させることはできん」
「そんな、それでは、道理が通らないです……」
「道理よりも優先される"手続き"があるのじゃよ、古臭く、面倒臭いな」
ディバルド公は、ベッドの脇に控えていたヴェルギウスへと視線を移した。
「公国の法に則り、我が騎士団の頂点――ヴェルギウスにその実力を示せ。……一太刀。たった一太刀でよい。対等な相手として、王国特使の連れてきた騎士が、公国最強の剣に届くという"証明"を見せろ。……それがあれば、儂はリゲルの頭越しに、"タニアへの接触権"を正式に君たちへ譲渡することができる」
「一太刀……ヴェルギウス卿に?」
私は戦慄した。相手は"人類到達点"。先ほど、アルトが魔法を使わずに挑んだ際には、手すらも使わずにあしらわれた怪物だ。
そんな彼に一撃を浴びせろというのは、死刑宣告にも等しい。
「……分かりました。ならば、私が――」
私が"シンデレラ"の力を解放しようと手を掲げた瞬間、ディバルド公がそれを制した。
「すまぬな、ノクティアよ。これは古い騎士の法なのじゃ。……戦うのなら"姫"ではなく――誇り高き騎士であるべきだろう」
「ッ……!」
その言葉に、私は息を呑んだ。
ガーランドにおいて、魔法はあくまで"不条理な兵器"であり、人の意志を示すのは"剣"なのだ。私が魔法でヴェルギウスを下しても、それは国の誇りを踏みにじるだけで、彼らの心までは動かせない。
けれど、アルト一人でどうやって?
私が不安に駆られて横を向くと、そこには、いつの間にか一歩前へと踏み出したアルトの姿があった。
「ノクティア様。ここは……私にお任せください」
アルトの声は、これまでにないほど低く、研ぎ澄まされていた。
彼はゆっくりとした動作で、左目の眼帯に手をかける。
かつてグラスベルの屋敷で出会った時の、未熟な青年騎士。
それが今、眼帯を外し、その下に隠された"硝子の瞳"を完全に露わにしていた。魔力を視認し、世界を解析するその瞳が、ヴェルギウスという巨大な壁を真っ向から捉える。
「……ほう。良い目になったな、若き騎士よ」
ヴェルギウスは壁に掛けられていた一本の騎士剣を手に取ると、それを無造作にアルトへと投げ渡した。アルトはそれを空中で正確に掴み、切っ先を床に向け、静かに構える。
「勝負は一合のみ。……全てを賭け、貴様の剣を、この身に届かせてみろ」
ヴェルギウスは、剣を構えさえしなかった。ただそこに立っているだけで、周囲の空気が重く沈み込むような、圧倒的な圧力を発している。
アルトが深く息を吐く。
彼の周囲で、銀色の魔力が微かに火花を散らす。けれどそれよりも強く、目の奥で意思の光が瞬いていた。
彼自身が掴み取ろうとしている――新たな地平。その存在を、強く感じさせる。
「――行きます」
アルトの体が、銀の閃光と化した。
無形の構えから、一気に加速する。
ヴェルギウスの懐。
その絶対的な聖域へ、アルトの剣が最短距離で突き進む。
到達点の瞳に、初めて微かな期待の色が混ざった。
二人の剣が、火花を散らし、交錯しようとした――その、刹那。
「う……ヴェルギウス卿! ヴェルギウス卿はおられるか!」
重厚な扉が叩き壊されるような勢いで開け放たれ、一人の騎士が部屋の中に飛び込んできた。
衝突の寸前で、ヴェルギウスが指一本でアルトの剣を制し、即座に扉へと顔を向けた。アルトもまた、極限の集中から引き戻され、荒い息を吐きながら後退する。
「……何用だ。ここは大公の寝室。立ち合いの最中だぞ。無礼は承知の上だろうな?」
ヴェルギウスの声には、中断された不快感以上に、ただならぬ気配を察知した鋭さが宿っていた。
飛び込んできたのは、まだ二十歳にも満たないであろう若き伝令の騎士だった。彼の顔は紙のように白く、全身が小刻みに震えている。
「も、申し訳ございません……火急ゆえ、失礼いたします!」
彼は恐怖に引き攣った声で、絶叫するように告げた。
「正門前に――"赤ずきん"襲来! 正門警備部隊は……全滅! どうにか侵入は防ぎましたが、被害は甚大です!」
「なっ……! 彼奴ら、また現れたというのか!?」
ディバルド公がベッドから身を乗り出す。
だが、伝令の衝撃的な報告は、それだけでは終わらなかった。
「……それだけではありません! 突破されそうになった門に、宿から駆け付けた王国特使団の護衛が加勢いたしましたが……っ!」
私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
宿。加勢。
思考が、嫌な痺れに包まれていく――。
「……ギエナ様が……ギエナ・アルファルド様が、"赤ずきん"との交戦の末……現在、意識不明の重体です!!」
その報せと同時に、窓の外から、不気味なほどに冷たい風が吹き込んできた。
そこに混ざっていたのは、もはや鼻先を掠める程度ではない。
全てをドロドロに溶かし尽くすような、濃厚で、狂おしいほどに甘い――死の匂いだった。




