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103話「到達点の守るもの」

 暖炉の薪が、爆ぜる。


 その小さな音さえもが、不気味なほど鮮明に響く静寂が寝所を支配していた。


 ディバルド大公の口から漏れ出た願い。それは、あまりにも切実で、痛切な祈りのようだった。


「……陛下。私に、何ができるというのでしょうか?」


 私は困惑を隠せないまま問い返した。


 私の目から見たリゲル・ヴァント=ガーランドは、冷徹で、合理的で、圧倒的な統率力を持つ完璧な皇太子だ。


 そんな彼が救いを必要としているなど、すぐには信じられなかった。


「リゲル皇太子は、非常にご立派な指導者に見えます。……私のような若輩が、彼に何を成せると仰るのですか?」


 ディバルド公は、枕に深く沈めた体をゆっくりと動かし、窓の外……夜の闇に沈むアークトゥルスの街並みに視線を向けた。


「そう見えるだろうな。あ奴は、そう見えるように自分を塗り固めてきた。……だが、ノクティア。あの街を囲む茨を見て、君はどう思った?」


「……凄まじい魔法の力だと。けれど、同時に……ひどく、痛々しいとも思いました」


「ほう、痛々しいか……。君の瞳は、本質を射抜くようじゃな」


 ディバルド公は、かすれた声で笑った。


 その笑いはすぐに激しい咳き込みへと変わり、ヴェルギウスが音もなく近寄って背中を摩る。やがて落ち着きを取り戻した彼は、重い口を開いた。


「……もう、三十年以上も前の話になる。あの大戦の後、この大陸の勢力図は劇的に塗り替えられた。君も歴史で学んだであろう?」


 私は、かつて図書室で貪り読んだ書物の記憶を手繰り寄せる。


 大戦後。帝国フォルナクスは大敗し、多くの兵を、そして誇りを失った。対するヴァルゴ王国は勝利を収めたものの、戦後処理という重荷を背負わされ、緩やかな衰退の道を約束された。連邦エリダヌスは損得勘定のみで動くようになり、聖教国は変わらぬ傍観を貫いた。


「だが、我が公国は違った」


 ディバルド公の声に、かつての獅子の威厳が宿る。


「公国は兵の犠牲を最小限に抑え、戦勝国として莫大な利のみを受け取ることができた。精強な騎士たちは健在、国土は拡がり、名実ともに列強の一角へと躍り出た。……しかし、そこには一つだけ、決定的な"欠落"があった」


「欠落……ですか?」


 アルトが横から、緊張した面持ちで尋ねる。


「そう。魔法という不条理――"姫"の存在じゃ」


 ディバルド公は、苦々しく吐き捨てた。


「儀式の発祥たる聖教国はもとより、王国にも、連邦にも、戦場を支配する強大な力を持つ"姫"がいた。敗戦国となった帝国でさえ、"姫"の支援を軸に、不死鳥の如く立ち直ろうとしていると聞いた」


 "姫"が参戦していたら、大戦の結果は変わっておったじゃろう、と。


 そう、口にするディバルド公。その話が進むにつれ、部屋の気温が一段と下がったように感じられた。


「……ならば、我らにもそれが必要だ。騎士の剣だけでは、次なる不条理の時代を生き残れん……当時の儂らは、そう焦り、そう盲信した」


 肩の上のアルフェッカが、珍しく険しい沈黙を守ったまま、ディバルドを凝視している。


 彼女がいつから"姫"なのかはわからないが、もしかすると、この辺りの話も、リアルタイムで見てきていたのかもしれない。


「そうして、我が国も、一人の少女を"姫"として選び出し、聖教国より聖典を取り寄せ、儀式を執り行うことになった」


 そこで、彼の声のトーンが、一つ落ちる。


「……だが、ノクティア。君も知っての通り、誰も彼もが自分の娘を差し出したいとは思わん。……"姫"となり、異界の魂に人格を上書きされるということは、ある種の"死"に等しい」


「……死、ですか」


 その言葉に、胸の奥が焼けるような痛みを感じた。


 私も、ノクティアという少女を下敷きにして、ここにいる。自分もまた、誰かの犠牲のうえに立っているという事実は、絶えず、私を苛んでいる。


「……すまん。君も"姫"であったな。他意はない、ただ、当時の儂らはその冷徹な事実を直視し、恐怖しておったのじゃ」


 ディバルド公は済まなそうに目を細めたが、すぐにその視線は鋭さを取り戻した。


「そんな時、一人の騎士が名乗りを上げた。……軍の要職に据えてもらうのと引き換えに、自分の娘を差し出すとな。……地位のために、我が子を売ったのじゃ」


「そんな……っ!」


 アルトが、耐えきれないといった風に声を荒らげる。騎士の誇りを重んじる彼にとって、それは最も唾棄すべき裏切りに聞こえたのだろう。


「地位のために娘を差し出すなど、騎士としてあるまじき行為。……しかし、当時の儂らの目は、他国に追いつくという焦りに曇っておった――」


 そこで、ディバルド公は深く、深い溜息を吐いた。


「それが……今の"いばら姫"ですか?」


 私の問いに、それまで彫像のように沈黙していたヴェルギウスが、静かに、けれど鋼のような重みを持って口を開いた。


「……左様だ。タニア・カリスト=ブライアローズ。……かつてこのアークトゥルスで笑い、走り回っていた……今はもうどこにもいない、一人の少女の名――」


 ヴェルギウスの視線が、どこか遠く……地下に眠るあの繭を見つめるように彷徨う。




「――そして、私の姉だ」




 部屋を流れる空気が、一瞬で凍りついた。


 私とアルトは、信じられない思いで横に立つ大男を見上げた。


「……ヴェルギウス卿の、お姉さん……?」


 アルトの呟きが、震えている。


 ヴェルギウス・クライン。"人類到達点"とまで呼ばれる最強の騎士。


 その彼が、"いばら姫"と、血の繋がった弟であるという衝撃。


「……そう。此奴は、ヴェルギウス・クライン=ブライアローズ。元となったタニアの、実の弟じゃ」


 ディバルド公が、言葉を添える。


「……弟。じゃあ、さっき地下の扉の前で言っていた、『私にとっても大切な人』っていうのは……」


 私は、ヴェルギウスの横顔を見つめた。


 彫りの深いその貌には、今や隠しようのない悲哀が滲み出ている。


「……中身が変われど、姉であることに違いはない」


 ヴェルギウスは、自らの手を見つめながら絞り出すように続けた。


「私の父は二十年前、姉が完全に"いばら姫"として上書きされ、人格を失った直後……乱心した母によって殺された」


「……殺された……?」


「母は、娘を奪われた絶望で正気を失い、夫の喉を裂いた。……その後、母もまた獄中でその短い生涯を終えたと聞く。……地位と不条理の力と引き換えに、私の家族は皆、死に絶えた」


 ヴェルギウスの語る凄絶な過去に、私は息をすることも忘れていた。


 この国を護る最強の盾の正体は、国家という名の巨大な機械に、愛する家族を全て磨り潰された生存者の姿だったのだ。


「私にとっては……物語の化身になろうとも、あそこに横たわる少女は世界で唯一の肉親だ。……だから私は、あの方を護る。おかしなことではなかろう」


 ヴェルギウスの声は低く、地を這うような重みを持っていた。

 

 "人類到達点"。


 その異名は、彼が人間として持つべき愛や温もりを全て捨て、冷徹な武の極致に辿り着いた果ての、あまりにも寂しい称号だったのだ。


「……」


 私は、かけるべき言葉を見つけられなかった。


 "姫"になるということが、これほどまでに残酷な犠牲の上に成り立っていること。


 けれど、一体それが、リゲルとどんな関係があるというのだろうか――?


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