102話「騎士の秘密と頼み事」
アークトゥルスの地下深層、あの茨の繭が眠る密室を後にしてから、私たちはヴェルギウスの先導で宮殿の廊下を歩いていた。
行きとは違う、整然と磨き上げられた黒石の廊下。壁際には一定の間隔で黒鋼の甲冑を纏った騎士たちが立ち並び、彫像のような冷徹さで私たちを監視している。
逃げ場はない。
それ以前に、隣を歩く"人類到達点"の静かな歩調が、何よりも確実な檻となっていた。
「……ヴェルギウス卿」
沈黙に耐えかね、私は前を歩く広い背中に問いかけた。
肩の上のアルフェッカも、私の髪を握りしめたまま、その答えを待つように耳を澄ませている。
「どうして……あの場所に私たちが来ることが、分かったのですか? アルフェ――魔法の導きがなければ、辿り着けない場所のはずです」
少なくとも、侵入者がおいそれと現れるような場所ではない。
そこに、彼のような名のある騎士が現れるというのは――少し、出来過ぎな気もする。
ヴェルギウスは歩みを止めず、前を見据えたまま静かに口を開いた。
「別に、貴様らの何かに気が付き、駆け付けたわけではない。……私は毎晩、あの場所を見張りながら眠るよう、命じられているのだ」
毎晩、あの地下で。
眠りの中ですら、彼はあの一枚の扉を守り続けているというのか。その凄絶な執念に、私は背筋が凍る思いがした。
「それは……"いばら姫"が、この国の国防の要だから、ですか?」
リゲルが言ったように、彼女を最強の兵器として守るための任務。だが、私の問いにヴェルギウスは、わずかに、本当にわずかにだけ、その歩調を緩めた。
「……違うな。"いばら姫"は、リゲル様にとって……そして私にとっても、何よりも大切な方だからだ」
「大切な、人……?」
その言葉に含まれた、単なる忠誠心とは違う"熱"に、私は言葉を詰まらせた。
人類到達点と呼ばれる、冷徹なまでの武の権化。その彼が、あの幼い少女を想う時、その声には人間らしい響きが混ざっていた。
その真意を問い質そうとしたが、ヴェルギウスは一際重厚な装飾が施された、しかしどこか生活感の漂う扉の前で足を止めた。
「……失礼いたします、陛下。ヴァルゴ王国の特使をお連れいたしました」
ヴェルギウスが、これまでのリゲルに対するものとはまた違う、深い敬意を込めた声で扉に告げる。
招き入れる声が聞こえ、扉が開かれる。
そこは、宮殿の華美な装飾とは対照的な、質素で、しかし温かな暖炉の火が爆ぜる部屋だった。
部屋の奥に設置された大きなベッド。そこで、幾重にも重ねられた枕を背に、上体を起こしている老人の姿が目に入る。
蓄えた白い髭。半ばまで禿げ上がった頭。
かつては勇猛果敢な騎士として大陸にその名を轟かせたであろう、分厚い肩幅。病に伏せっているとはいえ、その顔付きには、今なお岩山のような力強さが宿っている。
だが、何よりも印象的だったのは、その瞳だった。
かつては鋭利な名剣であったろうその瞳は、歳月と病によって、今は"鈍った刃物"のような、不思議な優しさを湛えていた。
「……あなたが、ディバルド公……?」
ガーランド大公国、現大公。リゲルの父であり、この北方最強の軍事国家を統治してきた男。
私が驚愕に声を震わせると、ディバルドは好々爺めいた穏やかな微笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。
「左様。不作法な出迎えで申し訳ないな。……君を連れてくるように命じていたのは、儂じゃよ。ノクティア・グラスベル」
「陛下が、私を……? ですが、ヴェルギウス卿は、会わせたい人がいるとしか……」
「ははは。彼は真面目すぎてな、儂の指示を忠実に守ったまでのこと。本来であれば、明朝にでも君たちの宿に使いを出すつもりだったのじゃが……まさか、夜這い紛いの真似をして地下まで潜り込んでくるとは思わなんだ」
ディバルドの屈託のない笑い声に、私は顔が熱くなるのを感じた。アルトも後ろで気まずそうに視線を逸らしている。
肩の上のアルフェッカだけが、腕を組んで「行動が早すぎたかしらね」と、事もなげに呟いた。
「……お言葉ですが、陛下。私に何かご用でしょうか? 私たちはあくまで、特使として同盟の提案に参りましたが、リゲル皇太子には……」
「倅の無礼なら、儂からも詫びよう。……あ奴は、少々背負い込みすぎているのだ。自分一人の肩に、この国の全重量をな」
ディバルドはそう言うと、少しだけ表情を曇らせた。
その瞳に宿るのは、一国の主としての懸念ではなく、一人の父親としての深い憂いだった。
「陛下……」
「ノクティアよ。君は、王国の"姫"であると聞いている。エリダヌスでの活躍も、そこのヴェルギウスから聞いた」
ディバルドは、ゆっくりと私の方へ手を差し出した。その手は大きく、温かく、そして微かに震えている。
「儂は、この国がどうなろうと、もう悔いはない。十分すぎるほどに戦ってきた。後は、若い者たちが作り上げてゆけばいい」
彼の声色から伝わってきたのは、疲労感のようなものだった。
ガーランド大公国。王国よりも、連邦よりも厳格な、黒厳の騎士国家。
その最前を走り続けてきた彼も、今は老いた。残っているのは――瞳の奥に燻る、最後の熱だけだ。
「……だがな。あ奴だけは……リゲルだけは、このままではいかんのだ」
ディバルドの双眸が、真っ直ぐに私を射抜いた。
そこには、これまで出会ったどの王たちとも違う、切実な"願い"が込められていた。
「……頼む、ノクティア・グラスベル。不肖の倅、リゲルのことを救ってやってはくれまいか」
彼は、絞り出すように、そう、口にするのだった。




