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100話「潜入、黒薔薇宮」

 アークトゥルスの夜は、音を奪い去るような静寂に包まれていた。


 街灯の灯りは凍りついたように動かず、玄武岩の影が怪物のように街路へ伸びている。宿の裏口から滑り出した私とアルトは、厚手の外套を深く被り、自らの呼気さえも殺して雪を踏みしめた。


「……お嬢様、こちらへ。巡回が来ます」


 アルトが私の腕をそっと引き、建物の影に滑り込む。

 数秒後、重厚な鉄靴の音が石畳を叩き、松明を持ったガーランド騎士たちが通り過ぎていった。


 彼らが去ったのを確認し、私は肩の上で胡坐をかいている小さな賢者に視線を送る。


「アルフェッカ、準備はいい?」


「ええ。ノクティア、例の欠片を出しなさい。……今からタニアの魔力に、私の"髪"を繋ぐわ」


 私が懐から銀色の結晶を取り出すと、アルフェッカは掌をかざし、微かな銀光を灯した。


 結晶から伸びた細く眩い光の糸は、虚空を泳ぐようにして、宮殿"黒薔薇宮"を覆う巨大な茨へと吸い込まれていく。

 

 アルフェッカの(ルーツ)、"髪長姫(ラプンツェル)"の物語――それは、閉ざされた塔の頂へと愛する者を導くお話だ。


 だが今は、この堅牢な茨の檻を逆流し、その主が眠る深奥へと私たちを誘うための道標となっていた。


「……見つけたわ。あの茨の根元、排水用の古い石管から、魔力が出入りしているみたい。あそこからなら、宮殿の地下層へ直接潜り込めるわよ」


 アルフェッカが指し示したのは、茨の根に隠されるようにして口を開けていた、古い石造りの(ダクト)だった。


 アルトが手際よく格子の蓋を外し、先に中へと身を投じる。私もその後を追い、埃と湿り気の混ざった冷たい闇の中を滑り落ちた。


 辿り着いたのは、宮殿の地下に広がる備蓄庫の一角だった。


 地上とは打って変わり、窓のない地下回廊は、松明の灯りさえ届かない漆黒に沈んでいる。 


「……お嬢様、足元を。私が前を行きます」


 アルトの声は、闇の中でも揺るぎなかった。


 いつぞやと同じ、暗闇の中で僅かな灯りを手に、慎重に足場を選び取る。


 そうして、私たちは、アルフェッカが示す黄金の糸を辿りつつ、複雑に絡み合った地下回廊を奥へ、奥へと進んでいく――。



 ――カツン。



 その時、静寂を切り裂くような音が響いた。


(――あっ、いけない……!)


 私の右足が、床に落ちていた石の破片を蹴ってしまった、そう気が付いた瞬間には、もう遅かった。


 暗い回廊に、その音が不自然なほど大きく反響する。


「……誰だっ! 備蓄庫の方か!?」


 数十メートル先、角を曲がった先から鋭い声が響いた。


 重厚な鎧が擦れる音が聞こえ、松明の明かりが壁に揺れ始める。騎士がこちらに向かってくる。


(……まずい……っ!)


 私は反射的に"シンデレラ"の魔法を練り、硝子の檻を展開しようとした。


 だが、私の指先が光を帯びるよりも速く、隣にいたアルトが動いた。


「――ッ!」


 彼は音もなく地面を蹴った。


 それは魔法による強化などではない。純粋な身体能力と、日々の鍛錬によって培われた無駄のない跳躍。

 

 松明を掲げ、不審者を探そうとした騎士が角から現れた瞬間。


 アルトの姿は、既に騎士の死角へと入り込んでいた。


「なっ……がはっ……」


 アルトの手刀が、騎士の兜の隙間――首の急所を的確に突いた。


 崩れ落ちる騎士。その体から松明が滑り落ちるよりも速く、アルトは騎士の体を支え、松明を空中でキャッチして火を消した。


 ドサリ、という小さな音と共に、騎士がその場に沈む。

 

「……アルト?」


 あまりにも鮮やかな手際に、私は言葉を失った。


 彼は魔法を使っていない。ただの技術だけで、ガーランドの精鋭騎士を一瞬で無力化してみせたのだ。


「……大丈夫です、ノクティア様。急所を叩いて失神(きぜつ)させただけです。……魔法を使えば、魔力の残滓で、誰かに勘付かれるかもしれませんから」


 アルトは息を切らすこともなく、静かに私を振り返った。

 

 その瞳に宿る輝きは、どこか自信なさげだった彼のものとは違っていた。数々の死線を乗り越え、父の遺産を継ぐ者としての覚悟を宿した、一人の戦士の目だった。


「……驚いたわ。アルト、いつの間にそんなに……」


「……お嬢様を守るためですから。このくらいは、できないと」


 少しだけ誇らしげに、けれど謙虚に微笑む彼を見て、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 彼は私が知らない間にも、私を守るために誰よりも高く、遠くへ至ろうとしていたのだ。


「感心している暇はないわよ。……魔力の拍動が強くなっている。この先よ」


 肩の上のアルフェッカが、低く警告を発した。


 私たちは気絶させた騎士を物陰に隠すと、さらに回廊の深奥へと進む。

 


 やがて、道は一本の巨大な廊下へと突き当たった。


 その突き当たりに鎮座していたのは、宮殿のどの扉よりも重厚で、禍々しいまでの装飾が施された黒鋼の巨扉だった。

 

 扉の表面には、まるで生きているかのように、無数の茨の意匠が浮き彫りになっている。

 

 ひたひたと、冷たい空気。


 そこに混ざる、焦がした砂糖のような、甘い匂いがどこかアンバランスで、嫌でも私の心臓を高鳴らせる。


「……この扉の向こう側に、彼女がいるのね」


 私は、震える手を扉へと伸ばした。

 

 "いばら姫"。

 ガーランドの全てを縛る、停滞の物語。

 

 その"真実"まで、あと一枚の扉を残すのみとなった。


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