97話「"棘無し"」
黒薔薇宮の最上階――本来であれば、この国の主であるディバルド大公が座るべき執務室は、鋭い緊張感に満たされていた。
広々とした円形の部屋を支配していたのは、壁一面を埋め尽くす書架と、机の上に積み上げられた山のような書類。そして、優雅に腰掛けつつも、それらを冷徹な手際で捌き続ける一人の青年だった。
「……ふん、やはりあの時と変わらぬ間抜け面だ。歓迎してほしければ、もう少しまともな表情をぶら下げてくるのだな」
厳しい声で話しつつも、リゲルはペンを動かす手を止めなかった。
部屋には、北方特有の鋭い冷気と、かすかに混ざる苦い薬草の匂いが漂っている。それは、現在病床に伏せっているという現大公、ディバルド・ボルト=ガーランドに処方されているものだろうか。
「……リゲル殿。本日は、お忙しい中、お時間を頂戴し、恐悦の極みでございます。つきましては、大公国の――」
「くだらん前置きはよい。本題に入れ」
私の言葉を、リゲルは顔すら上げずに切り捨てた。
その声には、以前の首脳会議で感じた傲慢さ以上に、隠しきれない疲労と苛立ちが混ざっている。
机の脇には、肺咳に苦しむ父に代わり、軍事、内政、そして外交の全てを一手に引き受けている現状を物語るように、処理済みの書類が地層のように積み重なっていた。
彼には、外交的な社交辞令に付き合う"些事"への余裕など、欠片も残っていないのだ。
「……分かりました。では、端的に申し上げます」
私は深呼吸をし、感情を抜いた瞳に力を込めて彼を見据えた。
「先日、"大星潮首脳会議"の場でお話しした件の続きです。……以前も申し上げた通り、我が王国は、現在眠りについている"いばら姫"――タニア様の呪いを解く具体的な手段を保持しています」
その言葉に、リゲルのペンがわずかに止まった。
「……ほう? 続けろ」
「はい、前回は確証が持てず、濁した形になりました。ですが、今は違います。その具体的な根拠と、実行のための触媒……賢者アルフェッカ様より預かった、魔力の結晶を私たちは携えています」
「王国の"髪長姫"アルフェッカか。なるほど、知らぬ名ではないな」
「……条件は、ただ一つ。帝国フォルナクスの侵攻に備え、ヴァルゴ、エリダヌス、そしてガーランドの三カ国による"相互防衛条約"を締結することです」
静寂が、部屋を支配した。
リゲルはようやく顔を上げると、背もたれに深く身を預け、嘲るような笑みを浮かべた。
「……クク、ハハハハハ! 相変わらず、夢見がちな小娘だ。あの絶体絶命の会議を乗り切るための詭弁かと思っていたが、それをわざわざここまで使い回しに来るとは。……ノクティア、お前は我らガーランドを、口先だけの奇跡で動かせるほど安い国だと思っているのか?」
「詭弁ではありません! 実際に、私たちはアルフェッカ様から力を託されています。タニア様の魔力不足を補い、再び目覚めさせる……それこそが、この国を救う唯一の道です!」
「救う、だと?」
リゲルの瞳が、殺気を含んで細められた。
「口に気をつけろ、我が公国の防衛網は完璧だ。タニアは確かに眠っているが、彼女が展開する"茨"を突破できる軍隊などこの大陸には存在せん。帝国だろうが、どこの"姫"だろうが、この黒い檻を越えることは叶わぬのだ」
「いいえ、お言葉ですが、それは慢心です! 帝国の脅威は、もはや各個撃破でどうにかなる段階ではありません。現に、この国にも既に恐ろしい"姫"――"赤ずきん"アンタレスが侵入しているはずです!」
私の脳裏に過っていたのは、赤い悪夢。
始めて、この世界の理不尽を痛感させた、不条理の権化。
「彼女の溶解魔法にかかれば、どんな強固な守りも――」
「――たわけめ」
リゲルは、吐き捨てるように言った。
「その"赤ずきん"とやらの話なら、もう終わったことだ」
彼の言葉が、一瞬理解できなかった。
「終わった……? どういうことですか?」
私の問いに、リゲルは顎で傍らの男を指し示した。
今まで影のように沈黙を守っていたヴェルギウスが、静かに一歩前へ出る。
「"赤ずきん"を名乗る不届き者なら、確かに昨日、正門前へ現れた」
彼の言葉は、抑揚に乏しい。故に、そこにどんな意図が込められているのかは、判じにくい。
「……ゆえに、私が斬った」
ヴェルギウスの淡々とした言葉に、私は、そして私の背後にいたアルトまでもが、言葉を失った。
「斬った……? あの、アンタレスを?」
アルトの声が、戦慄に震えている。
私たちは、彼女の絶望をその身で知っている。レグルス砦を文字通りドロドロに溶かし、人としての理を逸脱した不条理。魔法を持たぬ人間が、正面から戦って勝てるような相手ではない。
「不可能だ……。あいつの"溶解"は、剣も、鎧も無に帰す。近づくことさえ許されないはずだ……っ!」
アルトが叫ぶ。だが、ヴェルギウスの表情は、凪いだ湖面のように動かない。
「不条理などと大層な名を冠してはいたが……所詮は、物語に依存せねば剣も振れぬ小娘だ。……溶解を始める前に太刀を浴びせれば、それで終いよ」
さらりと言ってのけるその言葉の裏にある、圧倒的な"武"の重圧。
人類到達点。
その異名が、決して誇張ではないことを、私は本能で理解した。
魔法を、技術だけで上書きする。それは、ある意味で帝国や"姫"たちよりも、遥かに狂気じみた、人間という種族の極致だった。
「わかったか、ノクティア」
リゲルが、冷ややかに告げる。
「お前たちが恐れる"姫"とやらも、我が国にとっては、そこのヴェルギウスの手をわずらわせる些事の一つに過ぎん。……そんなもののために、我が公国が他国の足並みに合わせ、貴重な兵を割く理由がどこにある?」
「……ですが、リゲル殿。今回はヴェルギウス様が退けられたかもしれませんが、次は分かりません。帝国は確実に進化している。それに、タニア様を目覚めさせたいという願いは、あなた自身も持っているはずでは――」
「黙れと言ったはずだ」
リゲルが机を叩いた。その音は、肺咳に伏せる父・ディバルドの病室まで届くのではないかと思うほど鋭く響いた。
「我が父は病に臥せり、私はこの国の全てを背負っている。根拠のない"奇跡"に縋っている暇などないのだ。……タニアは目覚めずとも、この国を護る。それで十分だ」
リゲルはそれ以上、私たちの顔を見ようとはしなかった。
彼は視線を書類の山へと戻し、再びペンを走らせ始める。それは、「これ以上の会話は時間の無駄だ」という明確な拒絶の意思表示だった。
「……ヴェルギウス。客人を客室へ案内しろ。……ノクティア、我が公国を口説き落としたければ、次はもっと上等な土産を用意してくるのだな。口先だけの希望ではなく、我々が動かざるを得ないほどの、圧倒的な現実をな」
「……っ」
私は、悔しさに唇を噛んだ。
今の私たちには、彼の"合理"を打ち破るための手札が、決定的に足りていなかった。
ヴェルギウスに促され、私たちは重苦しい沈黙を背負って執務室を後にする。
背後で扉が閉まる瞬間、聞こえてきたのは、冷たい北風の音と……リゲルの、短く、絞り出すような溜息だった。




