95話「黒茨の城塞都市」
ガーランド大公国は、大陸の極北――広大な、寒冷地をまるまる飲み込む形で存在している。
どこか長閑だったグラスベル領や、瑞々しさと活気を感じさせたフォーマルハウトとは違う。そこにあるのは、厳しい寒さと、死の気配ばかり。
「……ひ、ひどい寒さっす。お嬢様、あたしの鼻がもげたら、可愛さ五割減っすよ……っ」
馬車の中で毛布を三重に巻いたシャウルが、歯の根をガチガチと鳴らしながら訴える。
しかし、アルトは表情も変えずに答える。
「まあ、ガーランドですからねえ……グラスベル領の冬が、マシに思えるような寒さです」
彼は、手元に見覚えのない包みを持っていた。大きさ的に――剣だろうか? 大事そうに抱えているあたり、何か曰くのあるものなのかもしれない。
「あ、暖かく……暖かくはなんないんすか? 例えば、街の中とか」
「残念。私の知る限りでは、さらに寒くなりますよ」
その言葉に、思わずげんなりしてしまう。シャウルほどではないが、私もそこまで寒さに強い方ではない。
妹は、よく灯油を節約するために、ストーブを点けずに過ごしていたりもしたが、私は無理だった。寒さは、人を酷く弱らせるものだ。
(――そういえば、そんなのも随分昔のことみたいだな)
そう考えたのと同時、アルトの言葉を裏付けるように、馬車が石畳に差し掛かったあたりで、大気の色が変わった。
「"王の道"ってやつですねえ」
ギエナが、御者台から声を張る。
「なんでも、この道を通らねえと、"あれ"に押し潰されちまうんですと」
彼は遠くを指さす。同時に、吐き出された呼気が一瞬で白く凍り、散っていくのが見えた。
ガーランド大公国。
騎士の誇りと、厳しい寒さとが支配するこの軍事大国の入り口で、私たちを待っていたのは、幻想的な絶景などではなかった。
「……あれが、この街を護る"タニアの茨"なのね」
私の視線の先。
荒野の果てにそびえ立つ城塞都市"アークトゥルス"を、まるで巨大な檻のように包囲しているのは、どす黒い光沢を放つ、無数の巨大な茨だった。
それは、ただの植物ではない。
うねり、重なり、天を突くその棘の一つ一つが、鋼鉄以上の硬度を保ちながら、微かに脈打っている。
眠り続ける"いばら姫"、タニア・カリスト=ブライアローズ。
"いばら姫"の命を燃料にして維持されているという、あまりにも痛々しい、無敵の壁。
前に、ギエナから聞いたことがある。あの"茨"の主を目覚めさせるために、リゲルは尽力しているのだと。それは、実際に目にすると、気圧されてしまいそうなほどの迫力を感じる。
(――魔法の規模的には、アルゴラ以上ね)
彼女もまた、広大な晶潮館を迷宮で閉ざしていたが、流石に都市一つとまではいかなかった。もし、力を貸してもらえるようになれば、かなり心強い――。
――そう考えつつ、正門のあたりが見えてきた、その時だった。
「お嬢様、伏せなせえ。……何やら、様子がおかしいですぜ」
御者台で手綱を握るギエナが、声を低くした。
本来、特使である私たちを通すべき"王の道"の正門前。そこには、一糸乱れぬ黒鋼の甲冑に身を包んだガーランド騎士団が、抜剣した状態で立ち塞がっていた。
「止まれ、他国の鼠ども! ここから先は、武を解さぬ者の立ち入る場所ではない!」
先頭に立つ騎士の怒号が、北風に乗って叩きつけられる。
私は馬車を降り、冷気に肌を刺されながらも、背筋を伸ばして一歩前に出た。
「ヴァルゴ王国特使、ノクティア・グラスベルです。大公閣下、ならびにリゲル皇太子への親書を携えて参りました。通していただけるはずです」
何かの勘違いだろう、と、そのくらいの軽い気持ちで、親書を突き付けた私だったが、その視線は、鋭さを増すばかりだった。
「黙れ! そのような甘言など、聞く耳は持たぬ。今この国は厳戒態勢にある。怪しき者は、たとえ王族であろうと切り捨てよとの命だ!」
殺気。それも、単なる威嚇ではない。
彼らは本気で、私たちをこの茨の肥料にするつもりだ。ギエナが腰の剣に手をかけ、アルトが半身になって私を庇う。空気が張り詰め、一触即発の火花が散ろうとした、その時。
「――そこまでにせよ。見苦しい」
背後から響いたのは、音を置き去りにしたかのような、静謐な声だった。
騎士たちの動きが、一瞬で凍りつく。
人波が割れ、そこから現れたのは、質素な黒の旅装を纏った一人の男だった。
腰に一振りの剣を下げ、足音すら立てずに雪の上を歩くその男は、私の前を通り過ぎる際、一瞥さえもくれなかった。
「ヴェルギウス様……っ!」
騎士たちが慌てて剣を引き、膝を突く。
人類到達点、ヴェルギウス・クライン。
"姫"という不条理すら斬り伏せると謳われる、この国最強の剣聖。
「ノクティアと言ったな、王国の特使よ。リゲル様がお待ちだ……来い」
彼はそれだけを告げると、迷いなく黒い茨の群れへと歩き出した。
私たちが後を追うと、それまで威嚇するように蠢いていた茨が、まるで王を迎えるカーテンのように、音もなく道を開けていく。
寒さが、さらにその強さを増していた。
まるで、これからの私たちの道行きを――暗示しているかのように。




