94話「安寧、断頭、流転」
王都ヴァルゴを後にし、私たちの馬車は一路、南西に位置する懐かしき我が家――グラスベル領へと向かっていた。
王宮での息の詰まるような謁見、そしてフォーマルハウトでの死闘。それらすべてを一時だけ過去に追いやり、街道を吹き抜ける風は春の温かさを帯び始めている。
「……二週間ぶりくらいっすか。もっと長く離れていたような気がするっすね」
馬車の窓から、見慣れた麦畑の広がりを眺めてシャウルが呟いた。その膝の上には、王都で買い込んだ食べ物たちがたんまりと載せられている。
「へっ、違いねえ。王都の柔らけえベットもよかったが、たまにゃ、自分ちの硬えベッドも恋しくなるもんだ。なあ、アルト」
「……いや、私の家は、そんなに硬いベッドじゃないですけど、家が恋しくなる気持ちは、少しだけ」
御者台のギエナに応えながら、アルトは足元に置かれた重厚な包みにチラリと目をやった。
全員の心には、ようやく手にした"休息"への期待があった。領地に戻れば、信頼できる使用人たちがいて、温かいスープがあり、戦いの火照りを冷ます静寂がある。
「……グラスベル領まで戻れば、少し落ち着いて、体勢を立て直せるはずよ。そうして用意ができ次第、ガーランドに向かうことにするわ」
「へい、へい。んじゃ、おじさんたちは、それまでに精々準備を整えときますよ――」
――そう、ギエナが軽い調子で返した、次の瞬間だった。
背後から、蹄の音が激しく響いてきた。
振り返れば、王国の紋章を背負った伝令が、喉を潰さんばかりの勢いで叫びながら馬を飛ばしてくる。
「――特使殿ッ! ノクティア・グラスベル特使殿はおられるかッ!!」
ギエナが舌打ちしながら馬車を止める。
馬から転げ落ちるようにして降りた伝令の顔は、死人のように蒼白だった。その瞳には、戦場の恐怖とはまた別の、得体の知れない"不条理"を目の当たりにした者の戦慄が宿っていた。
「……緊急の報せですか?」
私が馬車から降りて問うと、伝令は震える手で一通の書簡を差し出した。
「はっ……! 北方、ガーランド大公国との国境にある、関所の鉄門が……突破されました!」
その報せに、思わず全員の顔が歪む。
「突破? 馬鹿言うなよ、ガーランドとの関所だろう。あそこに普段から、何人騎士が詰めてると思ってやがる!」
ギエナが身を乗り出す。ガーランドの国境警備は、大陸でも有数の厳重さを誇るはずだ。だが、伝令の口から漏れたのは、信じがたい"光景"の報告だった。
「……戦いなど、なかったのです。ただ、一人の少女が歩いてきたと……。赤い頭巾を被ったその少女が門に手を触れた瞬間、高さ十メートルを超える鋼鉄の正門が、まるで"熱せられた飴細工"のようにドロドロと溶け落ちたのです……ッ!」
瞬間、私の背筋を、氷の刃でなぞられたような悪寒が走った。
「溶かされた……? 赤い頭巾の、少女……」
「……間違いねえ。あの野郎だ」
ギエナの声が、野獣の唸りのように低く響く。アルトの手が、無意識に剣の柄へと伸びた。
アンタレス。
かつてレグルス砦で私たちがまみえた、帝国の"姫"の一人。
すべてを融解させ、奪い去る"どろけてしまった赤ずきん"。
「関所の守備隊は、その影に触れることすらできず、ただ彼女が通り過ぎるのを震えて見送るしかなかったとのこと……。彼女はそのまま、北へ。……ガーランドの首都へと向かった模様です!」
郷愁の風は、瞬時に凍てつくような戦慄へと変わった。
アンタレスが動いた。
それも、私がこれから向かおうとしているガーランド大公国を、明確な獲物として定めて。
「……お嬢様。これ、笑えねえ冗談だぜ」
ギエナが御者台から飛び降り、厳しい表情で私を見つめた。
「"赤ずきん"が何を考えてんのかはわからねえが、このタイミングで動くってのはキナ臭すぎる。もしかすると、罠の可能性もあるが……」
「……もし、罠じゃなかった場合、ガーランドは小さくない打撃を受けるはずだわ」
「だな、そうなりゃ、他所に力を貸すだとか、そんなことも言ってられねえかもしれねえ……。"マッチ売りの少女"の、次の一手ってとこか」
私は、手元の書簡を握りしめた。
グラスベル領は、もう目と鼻の先だ。そこへ行けば、安全がある。けれど、今この瞬間に、北の大地では"溶解の厄災"が猛威を振るおうとしている。
もしアンタレスがガーランドの喉元に食らいつけば、リゲル皇太子といえど無事では済まない。そして、万が一"いばら姫"までもが奪われれば、世界に残された希望の半年間は、大きく目減りすることになるかもしれない。
「……ギエナ。馬車を回して」
「お嬢様?」
「グラスベル領へは戻らない。……このまま街道を北へ。ガーランド大公国へ急行するわ!」
私の宣言に、アルトが力強く頷いた。
「賛成です。……あいつを、これ以上好き勝手にさせてはいけない。俺……私にも、返さなきゃいけない借りがある」
「……へえ、また戦いっすか? まあでも、あの傲慢な皇太子に恩が売れるなら、悪くないっすもんね!」
シャウルは飛び跳ねるように上体を起こす。どうやら皆、気持ちは同じようだ。
「行こう、皆。……リゲル皇太子に、貸しを作ってあげるのよ。……これ以上、誰の物語も終わらせないために!」
馬車が、軋みを上げて反転する。
目指すは北方、茨に囲まれた騎士の国。
空は暗く、遠くで雷鳴が響いている。
それは、これから始まる、凄惨な物語の幕開けを告げる、不吉なファンファーレのようだった。
私たちは、安らぎを捨て、自ら嵐の渦中へと突き進む。
硝子の靴が、火花を散らして石畳を叩いた。




