93話「新たな力」
王都ヴァルゴ、近衛騎士団訓練場。
乾いた砂埃が舞う広場に、鋭い金属音と、荒い吐息が交錯していた。
「――次だ! 囲めッ!」
号令と共に、熟練の騎士団員五人が一斉に踏み込む。
彼らは王都でも選り抜きの精鋭だ。その連携は、一分の隙もなくアルトの退路を断ち、四方八方から鋭い刺突と斬撃が放たれる。
だが、その中心に立つアルトの動きは、異様だった。
彼は剣を構えてすらいない。ただ、流れるような歩法で、迫りくる穂先を紙一重で回避していく。
右から振り下ろされた大剣を、首を僅かに傾けて逃し、同時に背後から迫る槍の軌道を、見ることなく半身を逸らして受け流す。
(……視える)
アルトの右目――かつて到達点の剣技を焼き付けたその眼は、今、白銀の燐光を放っていた。
彼の視界では、世界が静止した硝子細工のように透過して見える。
騎士たちが筋肉を弛緩させる瞬間。肺から息を吐き出す予備動作。剣が空気を切り裂く"直前"の震え。それらすべてが、白銀の光の筋となって網膜に映し出されていた。
「そこだっ!」
アルトが初めて動いた。
回避の勢いを殺さず、最短距離で最前列の騎士の懐へ滑り込む。手にした木剣が、騎士の籠手の隙間を正確に叩いた。
「ぐふっ!?」
さらに、崩れ落ちる騎士を足場に跳躍。空中で身を翻し、槍を構え直そうとした二人の騎士の眉間に、目にも止まらぬ速さで木剣の切っ先を突き立てる。
まるで、最初からそこに剣を置くことが決まっていたかのような、迷いのない反撃。
「化け物か、あいつは……」
外側で見守っていた騎士の一人が、戦慄したように呟く。
それはかつての、未熟な騎士の動きではない。剣聖の影をその身に宿した、新たな"剣"の誕生を予感させるものだった。
だが、その時間は唐突に終わりを告げた。
「――っ、あああああッ!!」
最後の一人を打ち倒そうとした瞬間、アルトが右目を押さえて悶絶した。
彼の視界を満たしていた白銀の世界が、キィィィィィィンッという甲高い音と共に、物理的に"砕ける"ような幻覚を見せる。
硝子の眼の表面に、鮮明なヒビが走る。
脳を直接熱した鉄で焼かれるような激痛。アルトは剣を落とし、膝を突き、激しく咳き込んだ。
「止めだ! 全員下がれッ!!」
訓練場の隅で時間を計っていたギエナが、野太い声で制した。
彼は肩にかけた外套を翻し、ふらつくアルトの元へ駆け寄ると、その逞しい腕で少年の肩を支えた。
「……はぁ、はぁ、……まだ、いけます。……まだ、訓練を……」
「馬鹿野郎、寝言は寝て言え。眼にヒビが入ってやがるじゃねえか」
ギエナが覗き込んだアルトの右目は、白銀の光を失い、赤く充血していた。
「……一分だ。お前のその"硝子の眼"が保つのは、今のところ一分が限界だ。それ以上は、神経が焼き切れるか、その硝子玉が本当に粉々になるかのどっちかだぜ」
「一分……。……たった一分で、何ができるっていうんですか」
アルトは痛みに顔を歪めながら、悔しげに拳を砂に叩きつけた。
「"姫"も、帝国の化物どもも……あの夜に見た理不尽は、一分で終わるような相手じゃなかった! もっと長く、もっと正確に視えなければ、私はノクティア様を守りきれない……!」
「焦るんじゃねえよ。お前さんは、一晩寝りゃあそのヒビも治る。だが、俺はそうもいかねえ」
ギエナは自分の腰を、痛ましそうに叩いた。
「俺に芽生えた力は強力だが、この全盛期を過ぎたボロ布みてえな肉体じゃあ、一度全開にすりゃあ数日は動けなくなる。……そうなれば、お嬢様を支えられるのはお前だけなんだよ、アルト」
ギエナの言葉は重かった。
老いた獅子は、自分の限界を誰よりも理解している。だからこそ、若き騎士にすべてを託そうとしているのだ。
「……お前が頼りなんだ。死ぬ気でやるのは結構だが、死んじまったら元も子もねえ。……わかったな?」
「……はい」
アルトは納得のいかない表情を浮かべながらも、静かに頷いた。
自分とギエナ。二人の"盾"が揃って初めて、ノクティアの物語は続いていく。その責任の重さが、彼を苛んでいた。
(――それでも、俺は)
ギエナが負傷した団員たちの様子を見に離れた後、アルトは一人、訓練場の隅で冷たい水を顔に浴びていた。
充血した眼が、ようやく少しずつ治まり始める。
「やあ、君は、オレオーン殿のご子息だね」
そこへ、一人の年配の騎士が近づいてきた。
王都騎士団の制服を纏っているが、その佇まいにはどこか隠居した武人のような落ち着きがある。
「……先ほどの立ち回り、実に見事だった。その眼の使い方はともかく、根底にある足捌きや剣の筋……。懐かしいものを感じたよ」
「……あなたは?」
アルトが警戒を込めて問いかけると、老騎士は穏やかに笑った。
「昔、私はオレオーン殿に、命を救われたことがあってね。……彼がかつて語っていたご子息というのが、まさかこれほど逞しく成長しているとは」
オレオーン。
それは、アルトの父。"不落の獅子"と恐れられた武人。
「父を知っているんですか?」
「ああ。……彼が王国を離れる際、私にあるものを預けていったのだ」
老騎士はそう言うと、背後に隠していた重厚な、長細い包みを取り出した。
その包みには、古い油の匂いと、どこか凍てつくような冷気、そして確かな"重み"が漂っている。
「……オレオーン殿は"これ"を、恐れていたのだと思う。だから、王都の騎士団に預けたのだろう。守るための獅子に、"殺すため"の力は要らんとね」
老騎士が、ゆっくりとその包みをアルトへと差し出す。
「君が、持っているべきだろう。もう、この老骨には不要なものだ」
アルトは息を呑み、震える手でその重みを受け取った。
父が恐れ、切り捨てた力。
それを自分が扱えるのかどうか、分からなかった。
だが、その指先に迷いはない。知っているからだ。今の自分に――力の貴賤を選んでいる余裕が、ないことを。




