プロローグ 「0時の鐘で燃え尽きて」-前
私はいつだって、間に合わない。
大切な約束にも、運命の分岐点にも。いつも数秒、数分だけ遅れて、全てを失うのだ。
「こはるちゃん、お願い! 今日もラストまで、お願いできないかな?」
都内の外れ、学生も多く暮らす居酒屋のキッチン。エプロン姿の男性は、私に向かって、そう言いつつ両手を合わせた。
私は、溜まりに溜まった注文を捌く手を止めて、ジロリとそちらに目を向ける。
「はあ、またですか、店長。今月、何度目ですか?」
「いやあ、悪いとは思ってるんだよ。でも、バイトの上の子たちがごっそり辞めちゃって、人手足んなくてさ……」
「……しかも今日、クリスマスなんですけど。うち、妹と母と、パーティの予定だったんですけど」
「わ、悪いとは思ってるって! でも、頼めるの、こはるちゃんしかいないんだよ……」
後半になるにつれ、しぼんでいく彼の言葉を聞いていくうち、呆れよりも哀れさが勝ってくる。
答えは保留にして、溜め息を一つ。そうしている間にも、ホールの子が新しい注文を取ってきているのが見えた。
今日は、12月25日。世の人々は皆、ケーキにサンタにと浮かれている頃だろうか。
キッチンに設置された時計は、そろそろ夜の21時を指そうとしていた。バイトが終わる頃には日付が変わっちゃうな、なんて、少しだけブルーな気持ちになる。
けれど、こういうのは考えれば考えるだけ沈んでしまうものだ。気を紛らわせようと、私は再び、目の前の調理に戻る。
私の名前は星河こはる。
歳は18。今年、卒業と受験を控えた、高校3年生だ。
見た目も成績も、たぶん目立ったところはない。お父さんはいなくて、お母さんと、歳の離れた妹がひとり。名前はちはる、今年小学校に上がったばかりだ。
嫌いなものは寒いことで、好きなものは――。
「――ねえ、こはるちゃん、一つ聞いていいかい?」
集中していた私の意識は、隣で鍋を火にかけ始めた、店長の声で引き戻された。
「……なんですか、店長。そろそろ、高校生を深夜労働させることに、罪悪感を覚え始めましたか?」
「それはずっと感じてるよ! じゃなくてさ、ほら、こはるちゃん、いつも残業してくれるじゃない?」
「……? はい、だって、店長がシフト組むの下手くそだから、いつも人が足りなくなりますし……」
「いや、それはそうなんだけどさ。でも、いいのかい? 今の時期って、色々大変なんじゃないの、高校最後の1年だよ? 遊んだり、恋愛とかさ」
「セクハラですか、こういうときに電話するのって、本部でいいんでしたっけ?」
「やめてやめて! ただでさえ業績不振で給料削られてるんだから、食べていけなくなっちゃう!」
そんな茶番を挟みつつ、私は完成した料理をカウンターに載せた。
「……興味ないです。恋愛とか、遊んだりとか。そういう余裕、うちにはないんで」
「そう? じゃあ、よっぽどウチで働くのが好きとか?」
「そっちはもっと無いです。別にバイトに達成感とか、使命感とかも無いですし」
私にとって、大切なのは対価だ。
働いて、お金が貰えさえすればいいのだ。そう、お金が――。
「――お金が、いるんです」
時計が、1秒を刻む。
私の時給は、1300円。1秒で、0.36円稼いだことになる。それだけのお金で、私は自分の時間を売り払っている。
「……そんなに家、厳しいのかい?」
「まあ、それもありますけど。進学したいんで、ちょっとまとまったお金が」
「ああ、言ってたね。童話の作家さんになりたいんだっけ、シンデレラとか、白雪姫とか。子供が読むもんだから、僕はあんまり知らないけど――」
その言葉に、思わず、手が止まる。
「……店長、今、何と?」
「ああ、いや、童話でしょ? 昔は読んだんだろうけど、有名どころ以外は覚えてないね」
『店長。童話というのはですね、もっと残酷で、現実的な教訓の塊なんですよ』
喉まで出かかったそんな抗議を、私はぐっと飲み込んだ。
ここで店長と童話談義に花を咲かせれば、機嫌は取れるかもしれない。でも、それは私の主義じゃない。
チラリと時計を見る。あと1時間働けば、深夜割増で1500円。
そのお金があれば、帰りのコンビニで、ちはるが欲しがっていた高い方のショートケーキが買える。
「……ま、いいでしょう、やりますよ、私」
「え? いや、あの、セクハラ発言は取り消すからさ……」
「そっちじゃないです。さっきの話、残業、お受けしますよ」
「本当かい!? 助かるよ!」
この時の私は、自分の愚かさをまだ知らなかった。
たかが数千円の小銭と引き換えに、二度と戻らない時間を売り払ってしまったことに。
バイト先を出た頃には、もう、夜も随分と深まってしまっていた。
あの後、最後に入ってきた団体客が長々と居座ったせいで、結局、残業時間が延びてしまっていた。
昔からそうだった。私はこう、間が悪いのだ。「ちょっとならいいか」と引き受けた日に限って、時間が延びてしまったり、面倒事に巻き込まれたりするのだ。
「……時間にルーズなの、悪い癖だよなあ」
呟きつつ、スマホに目を落とす。あと、10分で日付が変わる。
白い吐息が漏れた。また、あの子に怒られてしまう。今日は、ちはるとお母さんと3人で、クリスマスを過ごすと約束していたのに。
でも、仕方がない。お母さん一人ではうちの生活はやっていけないし、どうせ、深夜割り増しの手当ては、ちはるのために使うのだから、文句もないだろう。
そう考え、私はのんびりと歩き出した。もう、クリスマスには間に合わない。道中、馴染みのコンビニに寄って、妹の好きそうなところをいくつか手に取ってから帰路につく。
いっそ、先に寝ていてくれたら楽だな、なんて、そんなことすら考えながら――。
――私は、自分の愚かさを思い知ることになる。




