夏の終わりに、もう一度
夏の空気には、いつも少しだけ切なさが混ざっている。
過ぎ去っていく時間の中で、もう一度だけ会いたい人がいる――そう思ったことはありませんか。
これは、約束を果たすために再びめぐり逢う二人の、ひと夏の物語です。
最後まで読んでいただけたら幸いです。
(※行がおかしくなっているかもしれません)
潮の匂いが、ふと鼻をかすめた。
蝉の声が、もう夏の終わりを知っているように弱々しく響く。
八月も残りわずか。
照り返すアスファルトの熱気が、まだ足もとにまとわりついて離れなかった。
俺は、町の海沿いを歩いていた。
気がつけば、毎年のように歩いていたあの道を、また辿っていた。
去年の夏、紗良が死んでから、初めて迎える夏祭りの日だ。
あれから何も変わらない町並みなのに、どうしてか世界の色だけが少し褪せて見える。
彼女と通った駄菓子屋は、まだ店を開けていた。
ガラス越しに見えるラムネ瓶の青が、夏の陽を弾いてきらりと光る。
俺は思わず足を止める。胸の奥が、きゅっと掴まれたように痛んだ。
あのとき、二人で分け合った最後のラムネの味が、思い出の奥からふいに蘇る。
「来年も、一緒に花火、見ようね。」
あの笑顔が、脳裏に浮かんだ。
祭りの帰り道、海沿いの防波堤の上で、そう言って笑った紗良。
あの夜の風も、花火の光も、全部鮮明に覚えている。
だけど、その「来年」は来なかった。
彼女は、翌朝の通学途中、車にはねられて死んだ。
俺は、葬儀のあともずっと、何も信じられなかった。
時間だけが流れて、気づけば一年が経っていた。
それでも、どうしてだろう。
今日は無性に、もう一度あの花火を見たくなった。
いや、たぶん本当は――もう一度、あの約束を思い出したかったのかもしれない。
夕暮れが近づき、町の灯が一つずつ点りはじめる。
遠くで太鼓の音が聞こえる。
祭囃子とともに、人の声、屋台の匂い、金魚すくいの水音。
あの日と同じ、夏の景色。
会場の中央に立ったとき、不意に背中を叩かれた。
「ねぇ、覚えてる? 花火のあと、約束したこと。」
振り返った瞬間、息が止まった。
そこに立っていたのは、もうこの世にいないはずの――紗良だった。
目の前の少女は、確かに紗良の姿をしていた。
肩までの髪が、夏の風に揺れている。
光の加減ではなく、まるで夕陽が彼女を透かしているように見えた。
俺は言葉を失った。
息を吸うことさえ、躊躇うほどに。
「……紗良、なのか?」
名前を呼ぶと、少女は少し驚いたように瞬きをした。
そして、懐かしい笑顔を浮かべた。
「やっぱり……和真だ。よかった。会えた」
その声が、あまりにも自然だった。
まるで、一年前の夏から時間が少しも進んでいないように。
けれど、その瞳の奥に、どこか儚い影が差しているのが分かった。
「どうして……いるんだ。お前は……」
言葉が途中で途切れた。
彼女がそっと笑い、屋台の明かりを見上げながら言った。
「ねぇ、少し歩こう? まだ、話したいことがあるの」
その手が、そっと俺の袖を掴んだ。
冷たくもなく、けれど確かに温もりがあった。
俺は抵抗できずに、ただ頷いた。
夜の町は、夏の名残をそのまま閉じ込めていた。
金魚すくいの赤、焼きそばの匂い、浴衣のすれ違う音。
風鈴が鳴るたび、遠い時間の記憶が胸に差し込んでくる。
紗良は、少し前を歩きながら時折振り返った。
歩き方も、笑い方も、何も変わっていない。
けれどその背中が、ほんのわずかに霞んで見える気がした。
「ねぇ、覚えてる? ここの射的屋で、和真、外したのに『当たったことにして』っておじさんに笑われたの」
「……ああ。悔しくて、次の年は練習してきたんだ」
「でも、やっぱり外した」
紗良は声を上げて笑った。
その笑い声が、夜風の中に溶けていく。
胸の奥が熱くなった。
懐かしさと、どうしようもない痛みが混ざり合う。
「……紗良。これ、夢なのか?」
ふと問うと、彼女は立ち止まり、振り返らずに答えた。
「夢でもいいよ。だって、会えたから」
それだけ言って、再び歩き出した。
屋台の明かりが遠ざかるたびに、影が長く伸びていく。
まるで、時の底に沈んでいくように。
屋台の喧騒を抜けると、潮の匂いが一気に濃くなった。
海辺の方角へ吹く風は、昼よりも少し冷たくて、
肌の上をすべるたびに、どこか懐かしい痛みを残していく。
砂浜へ降りる坂道の途中で、紗良がふいに立ち止まった。
白い浴衣の裾が、風に揺れる。
その背中を、夕闇の残光がやわらかく包んでいた。
「ねぇ、和真。
私ね、今日ここに来たの……“約束”を果たすためなんだ。」
静かな声だった。
夜の波音に混じって、消えてしまいそうなほどに。
「約束?」
「うん。去年の花火のあとに言ったでしょ。
“来年も一緒に見ようね”って。あれ、ちゃんと守りたかったの。」
胸の奥が、熱く締めつけられた。
あの夜の記憶が、鮮やかに蘇る。
花火の残光の中で、笑う紗良。
そして翌朝、もう二度と会えなかった彼女。
言葉を探しても、喉が動かなかった。
ただ、波の音だけがふたりの間を往復している。
「でもね、ちゃんと約束を果たせたら、きっと、
もう“こっち側”にいられなくなるんだって。」
紗良は笑った。
その笑みは、どこか幼い日のままだったけれど、
瞳の奥には、淡い哀しみの色が揺れていた。
「……そんなの、ずるいだろ。」
自分でも驚くほど、声が震えた。
涙がこみ上げてくるのを、必死に飲み込む。
「また会えたのに、またいなくなるなんて、そんなの……」
「でも、これでやっと“さよなら”を言えるんだよ。」
紗良の言葉は、まるで夜風のように優しかった。
俺の心を撫でて、少しずつ離れていく。
「ねぇ、和真。花火、もうすぐ始まるよ。」
見上げた空には、まだひとつも光がない。
だけど遠くの方で、ドン、と音が響いた。
初めの花が夜空に咲く。
白い光が一瞬、紗良の頬を照らした。
その肌が、淡く透けて見えた気がした。
「……紗良!」
思わず手を伸ばす。
指先が触れた。けれど、その感触は――水のように儚かった。
「ありがとう、和真。私、もう一度笑えたよ。」
花火の光が連なり、夜空を満たしていく。
その光の中で、紗良の姿がゆっくりと薄れていった。
声も、影も、風の中に溶けて消えていく。
「来年も、見に来てね。」
その最後の言葉が、波の音に消えた。
あれから、一年が経った。
海沿いの町は、今年も同じように夏を迎えている。
祭りののぼりが風に揺れ、遠くで子どもの笑い声が聞こえた。
去年の夏に見た光景と、何ひとつ変わらないようでいて、
どこか違う色をしている気がした。
俺は、あの夜と同じ坂道を歩いていた。
手には、二つのラムネ瓶。
片方は、空のまま。
もうひとつは、キャップを開けずに握っている。
砂浜に出ると、海風が頬を撫でた。
潮の香りが、少しだけ懐かしい。
空はまだ青く、水平線の向こうで、かすかに雲が光っている。
波打ち際に腰を下ろして、ひとりでラムネを飲む。
喉を通る甘さが、去年よりもずっと優しく感じられた。
やがて、空が群青に染まりはじめる。
その色を見ていると、胸の奥がかすかに疼く。
だけど、もう涙は出なかった。
あの夜、紗良が笑って消えた光景を、
今はようやく、思い出として受け止められる。
祭りの太鼓の音が、遠くから響いてきた。
花火が上がる合図だ。
空を見上げる。
闇の中に、一瞬の白い光が咲く。
続けざまに、赤、青、金の光が夜を彩る。
そのたびに、潮風が頬を打ち、音が胸の奥に響いた。
そして――ふと。
風の中に、微かに“風鈴の音”が混じった気がした。
この浜辺に、そんなものはないはずなのに。
「――来年も、見に来てね。」
あの声が、確かに聞こえた。
風の中、光の中、心の奥に。
俺は空を見上げたまま、小さく笑った。
涙が滲んで、花火の光が滲む。
それでも笑えた。
紗良が笑っていたように、少しだけ。
手に残ったラムネ瓶を、海へ向かって掲げた。
「――ああ。来年も、ちゃんと見に来るよ。」
波が静かに寄せて、足もとを濡らした。
その感触が、まるで彼女の手のように温かかった。
空には、最後の大輪の花火が咲く。
音も光も、胸の奥で弾けて、静かに消えていった。
夏の終わりの夜。
それは、さよならと、はじまりの夜だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
「再会」と「約束」という言葉には、時間を超える力があると思います。
失われたものが決して“消える”わけではなく、
形を変えて心のどこかに残り続ける――そんな願いを込めました。
読後に、誰かの笑顔が少しでも浮かんだなら嬉しいです。




