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夏の終わりに、もう一度

作者: 雨宮ナギ
掲載日:2025/11/08

夏の空気には、いつも少しだけ切なさが混ざっている。

過ぎ去っていく時間の中で、もう一度だけ会いたい人がいる――そう思ったことはありませんか。


これは、約束を果たすために再びめぐり逢う二人の、ひと夏の物語です。

最後まで読んでいただけたら幸いです。

(※行がおかしくなっているかもしれません)

潮の匂いが、ふと鼻をかすめた。

蝉の声が、もう夏の終わりを知っているように弱々しく響く。

八月も残りわずか。

照り返すアスファルトの熱気が、まだ足もとにまとわりついて離れなかった。


俺は、町の海沿いを歩いていた。

気がつけば、毎年のように歩いていたあの道を、また辿っていた。


 去年の夏、紗良が死んでから、初めて迎える夏祭りの日だ。

 あれから何も変わらない町並みなのに、どうしてか世界の色だけが少し褪せて見える。


 彼女と通った駄菓子屋は、まだ店を開けていた。

 ガラス越しに見えるラムネ瓶の青が、夏の陽を弾いてきらりと光る。

 俺は思わず足を止める。胸の奥が、きゅっと掴まれたように痛んだ。

 あのとき、二人で分け合った最後のラムネの味が、思い出の奥からふいに蘇る。


「来年も、一緒に花火、見ようね。」




 あの笑顔が、脳裏に浮かんだ。

 祭りの帰り道、海沿いの防波堤の上で、そう言って笑った紗良。

 あの夜の風も、花火の光も、全部鮮明に覚えている。

 だけど、その「来年」は来なかった。


 彼女は、翌朝の通学途中、車にはねられて死んだ。

 俺は、葬儀のあともずっと、何も信じられなかった。

 時間だけが流れて、気づけば一年が経っていた。


 それでも、どうしてだろう。

 今日は無性に、もう一度あの花火を見たくなった。

 いや、たぶん本当は――もう一度、あの約束を思い出したかったのかもしれない。


 夕暮れが近づき、町の灯が一つずつ点りはじめる。

 遠くで太鼓の音が聞こえる。

 祭囃子とともに、人の声、屋台の匂い、金魚すくいの水音。

 あの日と同じ、夏の景色。


 会場の中央に立ったとき、不意に背中を叩かれた。


「ねぇ、覚えてる? 花火のあと、約束したこと。」



振り返った瞬間、息が止まった。

 そこに立っていたのは、もうこの世にいないはずの――紗良だった。


目の前の少女は、確かに紗良の姿をしていた。

 肩までの髪が、夏の風に揺れている。

 光の加減ではなく、まるで夕陽が彼女を透かしているように見えた。


 俺は言葉を失った。

 息を吸うことさえ、躊躇うほどに。


「……紗良、なのか?」


 名前を呼ぶと、少女は少し驚いたように瞬きをした。

 そして、懐かしい笑顔を浮かべた。


「やっぱり……和真だ。よかった。会えた」


 その声が、あまりにも自然だった。

 まるで、一年前の夏から時間が少しも進んでいないように。

 けれど、その瞳の奥に、どこか儚い影が差しているのが分かった。


「どうして……いるんだ。お前は……」


 言葉が途中で途切れた。

 彼女がそっと笑い、屋台の明かりを見上げながら言った。


「ねぇ、少し歩こう? まだ、話したいことがあるの」


 その手が、そっと俺の袖を掴んだ。

 冷たくもなく、けれど確かに温もりがあった。

 俺は抵抗できずに、ただ頷いた。


 夜の町は、夏の名残をそのまま閉じ込めていた。

 金魚すくいの赤、焼きそばの匂い、浴衣のすれ違う音。

 風鈴が鳴るたび、遠い時間の記憶が胸に差し込んでくる。


 紗良は、少し前を歩きながら時折振り返った。

 歩き方も、笑い方も、何も変わっていない。

 けれどその背中が、ほんのわずかに霞んで見える気がした。


「ねぇ、覚えてる? ここの射的屋で、和真、外したのに『当たったことにして』っておじさんに笑われたの」


「……ああ。悔しくて、次の年は練習してきたんだ」


「でも、やっぱり外した」


 紗良は声を上げて笑った。

 その笑い声が、夜風の中に溶けていく。

 胸の奥が熱くなった。

 懐かしさと、どうしようもない痛みが混ざり合う。


「……紗良。これ、夢なのか?」


 ふと問うと、彼女は立ち止まり、振り返らずに答えた。


「夢でもいいよ。だって、会えたから」


 それだけ言って、再び歩き出した。

 屋台の明かりが遠ざかるたびに、影が長く伸びていく。

 まるで、時の底に沈んでいくように。


屋台の喧騒を抜けると、潮の匂いが一気に濃くなった。

 海辺の方角へ吹く風は、昼よりも少し冷たくて、

 肌の上をすべるたびに、どこか懐かしい痛みを残していく。


 砂浜へ降りる坂道の途中で、紗良がふいに立ち止まった。

 白い浴衣の裾が、風に揺れる。

 その背中を、夕闇の残光がやわらかく包んでいた。


「ねぇ、和真。

 私ね、今日ここに来たの……“約束”を果たすためなんだ。」


 静かな声だった。

 夜の波音に混じって、消えてしまいそうなほどに。


「約束?」


「うん。去年の花火のあとに言ったでしょ。

 “来年も一緒に見ようね”って。あれ、ちゃんと守りたかったの。」


 胸の奥が、熱く締めつけられた。

 あの夜の記憶が、鮮やかに蘇る。

 花火の残光の中で、笑う紗良。

 そして翌朝、もう二度と会えなかった彼女。


 言葉を探しても、喉が動かなかった。

 ただ、波の音だけがふたりの間を往復している。


「でもね、ちゃんと約束を果たせたら、きっと、

 もう“こっち側”にいられなくなるんだって。」


 紗良は笑った。

 その笑みは、どこか幼い日のままだったけれど、

 瞳の奥には、淡い哀しみの色が揺れていた。


「……そんなの、ずるいだろ。」


 自分でも驚くほど、声が震えた。

 涙がこみ上げてくるのを、必死に飲み込む。


「また会えたのに、またいなくなるなんて、そんなの……」


「でも、これでやっと“さよなら”を言えるんだよ。」


 紗良の言葉は、まるで夜風のように優しかった。

 俺の心を撫でて、少しずつ離れていく。


「ねぇ、和真。花火、もうすぐ始まるよ。」


 見上げた空には、まだひとつも光がない。

 だけど遠くの方で、ドン、と音が響いた。

 初めの花が夜空に咲く。

 白い光が一瞬、紗良の頬を照らした。

 その肌が、淡く透けて見えた気がした。


「……紗良!」


 思わず手を伸ばす。

 指先が触れた。けれど、その感触は――水のように儚かった。


「ありがとう、和真。私、もう一度笑えたよ。」


 花火の光が連なり、夜空を満たしていく。

 その光の中で、紗良の姿がゆっくりと薄れていった。

 声も、影も、風の中に溶けて消えていく。


「来年も、見に来てね。」


その最後の言葉が、波の音に消えた。


あれから、一年が経った。


 海沿いの町は、今年も同じように夏を迎えている。

 祭りののぼりが風に揺れ、遠くで子どもの笑い声が聞こえた。

 去年の夏に見た光景と、何ひとつ変わらないようでいて、

 どこか違う色をしている気がした。


 俺は、あの夜と同じ坂道を歩いていた。

 手には、二つのラムネ瓶。

 片方は、空のまま。

 もうひとつは、キャップを開けずに握っている。


 砂浜に出ると、海風が頬を撫でた。

 潮の香りが、少しだけ懐かしい。

 空はまだ青く、水平線の向こうで、かすかに雲が光っている。


 波打ち際に腰を下ろして、ひとりでラムネを飲む。

 喉を通る甘さが、去年よりもずっと優しく感じられた。


 やがて、空が群青に染まりはじめる。

 その色を見ていると、胸の奥がかすかに疼く。

 だけど、もう涙は出なかった。

 あの夜、紗良が笑って消えた光景を、

 今はようやく、思い出として受け止められる。


 祭りの太鼓の音が、遠くから響いてきた。

 花火が上がる合図だ。


 空を見上げる。

 闇の中に、一瞬の白い光が咲く。

 続けざまに、赤、青、金の光が夜を彩る。

 そのたびに、潮風が頬を打ち、音が胸の奥に響いた。


 そして――ふと。

 風の中に、微かに“風鈴の音”が混じった気がした。

 この浜辺に、そんなものはないはずなのに。


「――来年も、見に来てね。」




あの声が、確かに聞こえた。

風の中、光の中、心の奥に。


俺は空を見上げたまま、小さく笑った。

涙が滲んで、花火の光が滲む。

それでも笑えた。

紗良が笑っていたように、少しだけ。


手に残ったラムネ瓶を、海へ向かって掲げた。


「――ああ。来年も、ちゃんと見に来るよ。」


波が静かに寄せて、足もとを濡らした。

その感触が、まるで彼女の手のように温かかった。


空には、最後の大輪の花火が咲く。

音も光も、胸の奥で弾けて、静かに消えていった。


夏の終わりの夜。

それは、さよならと、はじまりの夜だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 「再会」と「約束」という言葉には、時間を超える力があると思います。

 失われたものが決して“消える”わけではなく、

 形を変えて心のどこかに残り続ける――そんな願いを込めました。

 

 読後に、誰かの笑顔が少しでも浮かんだなら嬉しいです。

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