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The Picky One

作者: 野梅惣作

世の中には二種類のものしか存在しない。

洗練されたものと、そうでないものだ。


龍之介はそう信じていた。

映画を観るならキューブリックや黒澤明。映像の構図と編集に隙のある作品は、ただの時間の浪費。

食事をするならコース料理か懐石料理。素材から器、照明の当たり方まで計算された世界こそが「美」であり、油にまみれたファーストフードなど口にする価値はない。

小説は純文学以外は紙の無駄で、服はハイブランドの新作以外は目にも入らない。


妥協は汚れだ。

美術商として「価値のあるものだけを選び抜く」日々を送る龍之介にとって、世界は常に二分されていた。


――そんな男が、不意に声をかけられたのは同窓会の夜だった。


「ねえ、久しぶり。変わってないね」

背後から肩を叩かれ、振り向くと、くたびれたカーディガンにスニーカーの女が立っていた。

直子。学生時代、教室の隅で漫画を読み、文化祭の準備には遅刻してくるくせに、模擬店のたこ焼きには真っ先に並んでいた顔だ。


「……直子も変わってないな」

「でしょ? ってか、昔から“俺は洗練された芸術作品しか興味ない。大衆性に毒された作品は偽善と欲の塊でしかない!”とか言ってたよね」

直子は雑な声真似をしてみせた。


「事実だ」

「はは、相変わらず」


「今なにやってるの?」

「美術商だ」

「へぇ〜。道理で同窓会なのにそんなピチッとした服で来るわけだ」

「これはかなりカジュアルなほうだ」

「カジュアル? この後何かの授賞式にでも行くのかと思ったわ」


龍之介は鼻で笑った。

「お前はカジュアルを通り越して、まるでルンペンだな」

「なにそれ!」直子は笑いながらも少しムッとした顔を見せる。


笑い方も、だらしない雰囲気も、何も変わっていない。

けれど、その軽さは妙に懐かしく、胸の奥を突いた。


「今度付き合いなさいよ。あんたの“洗練”じゃない世界、見せてあげる」

彼女はフリーライターになったらしく、雑誌やネットで食レポやインタビューを書いているという。


「時間の無駄だろう」

「じゃあ、その“無駄”を証明してみなよ」

「……それこそ無駄な時間だ」

「はい出た! 負けを認めるのが怖いやつ」

「認めることなど何もない」

「強がってる〜。昔からそうだもんね」


挑むような笑顔に、否とは言えなかった。



トントン拍子で決まってしまった居酒屋“デート”。

もっとも、二人に恋愛の気配はまるでなかった。


そして、飲み放題の二時間は、ハーフタイムのないサッカーの試合のようだった。

言葉のボールを奪い合い、主導権を取り合う。


「まずは私のおすすめ。ここの唐揚げ、食べてみなさい!」

直子は鼻息を荒くし、皿をこちらに押し出す。


龍之介はひとつ摘んだ。

衣はざくりと砕け、熱気と肉汁が舌の上に広がる。


――確かに、うまい。


だが、口からは理屈がこぼれる。


「まず、料理とは契約であり、対価が発生する。うまいのは当然だ。

しかしこの唐揚げは大量生産を前提に作られている。揚げ油は必然、劣化する。

その点、コース料理は一人ひとりに合わせて設計され、劣化など起こり得ない。

高い契約料に見合う、最高のものが出てくる――それは正に芸術ともいえる」


「ふふん、貴方の言いたいことはわかるわ」

直子は即座に返す。

「でもね、唐揚げ一つひとつは“大勢のため”に作られたものでも、その裏には店主がいる。

お客さんのためにレシピを工夫して、なるべく安く美味しいものを必死で考案した努力がある。

そこに“気持ちがこもってない”とは言わせないわ」


龍之介は鼻で笑った。


「それはコストパフォーマンスの話にすぎない。

犠牲を払って味を落としたと、自白しているようなものだ。

俺だって時間の都合でコンビニ弁当や機能性栄養食を口にする。

だがそれは、料理の本質とは関係のない延長線の評価だ」


彼は唐揚げを皿に戻し、冷ややかに言い放つ。


「君は“最高の料理を食べさせてやる”と招かれ、油の劣化した唐揚げが出てきたら喜ぶのか?」


直子は目を細め、口角を上げた。


とても居酒屋の会話とは思えない。

周囲の客からは、まるでいつ飛びかかるかわからない猛獣の睨み合いに見えた。


「すまない。言葉がすぎた。確かにこの唐揚げは美味い。コストパフォーマンスは最高と言える」


龍之介は素直に気持ちを伝えたが、直子には勝者の余裕に聞こえ、早速リベンジマッチを申し込む。


「……次は映画にでも行きましょうか......!!!」


怒っていないと言うには、無理があった。


「何でまた映画なんかに……」


心の声が言葉に出てしまった。

だが、居酒屋の雰囲気に呑まれ約束をしてしまったのは龍之介本人である。


今日も直子はラフな格好で大一番に望む。

「今日は『エルドランの封印』を見るわ!」

前回同様、その顔は自信に満ちていた。


映画の内容はよくあるファンタジー。

呪われた剣を封印するため、主人公が数々の試練を越える物語。

道中、幾度も窮地に追い込まれるが、最後は大団円。

よくあるストーリーだが、CGによる映像美や有名作曲家による壮大な音楽は確かに観客を異世界へ誘った。


「どうだった?」

直子は感想を求める。


龍之介は答える。


「この映画は確かに面白いのかもしれない。

だが、エンターテイメント性を重視するあまり、肝心なテーマが見えてこない。

その場のインスタントな喜怒哀楽に重視しすぎて、最終的に何を伝えたかったのか不明だ。

いや、そもそもテーマなんて本当はなかったのかもしれない。

喜怒哀楽に振り回されて描いた軌跡を、テーマだと言い張っているのかもな」


彼は一拍置いて続ける。

「それに……気になったのは、なぜ俺にこの映画を見せたかだ。

この映画の評価は家族連れからは好評だが、評論家からは酷評されている。

俺が酷評するのは目に見えているだろう」


直子は真剣な顔で言った。


「私が一番好きな映画だから。

子供の頃初めてこの映画を見たとき、テーマとか映像美とかはわからなかった。

でも、とにかく感動したの。まるで自分もファンタジーの世界で一緒に旅をしてる感覚。

そんな世界に私を連れてってくれた。

大人になった今も、その感覚だけはずっと覚えてる。

例えテーマは無くても、芸術性は無くても、この作品には人の心を動かす何かがあるのよ」


龍之介は言葉が出なかった。

同時に、自分はいつから“洗練されたもの”ばかりを求め、大衆を毒と考えるようになったのか――思い返していた。


「……なあ、直子」


龍之介は意外な言葉を口にした。


「次は、美術館に行かないか?」


自分の口から出たことに、彼自身が一番驚いていた。


後日、二人は美術館に集まった。


「今日は貴方がホストね。私のセンスが、貴方の“洗練された感性”を蹂躙するわ!」

直子は、相変わらず自信に満ちていた。


「……そんな話じゃないだろ」

龍之介は苦笑しつつも、真剣な眼差しを向ける。


「俺が今日ここに来たのは、この一枚に会うためだ」


彼は立ち止まり、一枚の絵画を見つめた。


――ゴッホ《星月夜》。


「渦巻く筆致が夜空を固定し、星の光をただの点ではなく、脈動する渦の中心に変えている。

闇を塗りつぶすのではなく、闇そのものに厚みを与える。

見れば見るほど、視線を逃がさない……。


……と、まあ言葉では色々語れるのだが、要は俺はこの作品に魅了されたのだ。

このタッチが、色使いが、モチーフが、心の中に入ってきて、言葉にならない感情が手足を縛り付け、この場から動くことを許さない。

ただの風景画のはずなのに、胸を撃ち抜かれて――俺は動けないんだ」


直子は絵に一歩近づき、小さく首を傾げた。


「私には、この絵の“良さ”は正直わからない。綺麗だと思うし、迫力もある。けど……他にもっと好きな絵がある。

でもね、その“動けない感覚”はわかる。私にとっては――『エルドランの封印』を初めて見たときの気持ちに近いかも」


「……あの映画か」


「うん。感じたものは違うけど、同じ矢に射られた感じがしたの」


龍之介は黙り込んだ。


――この日から、彼の心は何かに捉えられてしまった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ある日の午後。


龍之介は書類に目を通しながらも、心は上の空だった。

頭の片隅には、先日の美術館での《星月夜》が居座り続けている。

直子の言葉――「同じ矢に射られた感じがしたの」――が耳の奥にこびりついて離れない。


「……そういえば、直子が今度は“漫画を語りたい”って言ってたな」

思い出し、口元が緩む。だが、そのとき電話が鳴った。


お得意先である、美術品蒐集家の社長からだった。


「いつもお世話になっております」


社長が、機嫌良く切り出す。


「龍之介くん、今度ぜひ紹介したい女性がいるんだ。年齢も近いし、趣味も合うはずだ。どうだね?」


一瞬、直子の顔がよぎるも、お得意様の勧めを断るわけにはいかない。


「......そうですね、是非お願いします」


渋々ながらも、龍之介は後日、その女性と会うことになった。



待ち合わせのカフェに現れた女性は、まさに「洗練」という言葉が似合う人物だった。

艶やかな髪、無駄のない所作。ブランド物のバッグや靴も嫌味がなく、上品に馴染んでいる。


「はじめまして。真由子といいます」


その微笑みは完璧なバランスで保たれ、会話も淀みなく進んだ。


「芸術は洗練されてこそ価値があると思います」

「ええ。未熟な作品は結局、大衆を惑わせるだけですから」

「わかります。映画もそうですね。娯楽に逃げると、すぐ安っぽくなる」

「同感です。真の芸術は、時間を超えて残りますから」


龍之介は頷きながらも、どこか落ち着かない気持ちを覚えていた。

話が噛み合うのは心地よい。価値観も似ている。

だが――胸の奥には、不思議な空洞が広がっていく。


(……あれ?)


龍之介はふと気づいた。

この会話は、確かに“噛み合う”。けれど、そこに熱も鼓動もない。

まるで鏡と話してるような......


その瞬間、直子と過ごした時間がフラッシュバックする。

居酒屋で激しく言葉をぶつけ合った夜。

映画館で「心が動いた」と真顔で言い切った直子。

《星月夜》の前で、矢に射られたようだと語った自分。


そうだ、自分も、この目の前の女性も、直子も、“穴の空いた存在”なんだ。


直子と過ごした日々、あのとき、自分の“穴”は確かに塞がっていた。

穴の塞がった自分という器に、知らないうちに温かい何かが注がれていく感覚があった。


だが今、目の前にいる真由子は違う。

彼女は美しい器だ。けれど、その底にも、同じ場所に穴が空いている。

同じ穴を重ねても、隙間は埋まらない。

注がれた水は、ただただ下に落ちるだけ......


――満たされるのは、直子といるときだけだ。


龍之介は静かに息をつき、コーヒーを口に運んだ。

味は確かに洗練されていたが、不思議なほど何も残らなかった。


ふと、真由子が微笑みながら口を開いた。


「なにか、答えが出たって顔をしてるわ……。言わなくてもわかる、あなた、恋をしてるのよ」


真由子は、氷が溶ける音のようにさらりと言った。

その声音には、嫉妬も執着もなく、ただ観察する者の冷静さがあった。


龍之介は一瞬、言葉を失い、視線を伏せた。

「……すみません、少し考え込んでしまいました」


「いいえ。表情を見ればわかります」

真由子はカップを置き、微笑んだ。

「私も同じだから。鏡を見るようにわかるの。私の隣にあるべき人は、きっとあなたじゃない」


「……鏡、ですか」


「ええ。私もあなたも、器としては完璧に磨かれているつもり。でも、底にぽっかり穴が空いている。だから重ねても、何も満たされない」


まるで自分の心を読まれてるようだった。

龍之介は返す言葉を探したが、胸の奥ではすでに答えが響いていた。

彼女の言う通りだ。

そして、その穴を塞ぐのは、目の前の「鏡」ではなく――直子しかいない。


真由子は小さく肩をすくめ、最後にこう告げた。


「その人を、大事にしてね」



休日の午後。

龍之介は、駅前のカフェで直子を待っていた。

グラスの氷が小さく音を立てるたびに、昨日の真由子との会話が脳裏をよぎる。


――「その人を、大事にしてね」


社長から紹介されたあの女性。

自分と同じ「洗練」を掲げた彼女の言葉は、鏡に映った自分と話すようだった。

話が合うだけで、なにも満たされなかった。

同じ穴を抱えた者同士は、塞ぎ合えないのだと痛感した。


「……遅いな」

呟いたその瞬間、勢いよくドアが開いた。


「お待たせ!」

直子が駆け込んできた。

いつものスニーカーに、ラフなワンピース。

場違いなほど飾らない姿に、龍之介は思わず笑ってしまった。


「また走ってきたのか」

「電車が遅れてさ。まあ、私らしいってやつ?」

肩をすくめて笑う直子に、怒る気はまるで起きない。


コーヒーを頼み、二人は向かい合う。

龍之介は切り出した。


「この前、ある人に言われたんだ」

「ん?」

「俺みたいな人間は、器としては磨かれていても、底に穴が空いている。だから、同じような人間と並んでも、何も満たされない」


直子はストローをくるくる回しながら、じっと耳を傾けていた。


「でもな……お前と一緒にいるときは違った。

居酒屋で言い合ってるときも、映画館で噛み合わなかったときも。

不思議と、その穴が塞がって、満たされていく気がしたんだ」


照れ隠しのように目を背ける。

言葉にするのは、どうにも気恥ずかしい。


直子は少し目を見開いたあと、くすっと笑った。


「アンタさ、そういうの真顔で言うとこ、ほんとずるい」


「……そうか?」


「うん。でもね、わかる気がする。

私も、アンタの“面倒くさい理屈”に救われてるときあるから」


「救い?」


「私なんて雑でしょ? 記事も安っぽいグルメレポばっかで、締め切りに追われても適当だし。

でも、アンタは“最高の料理はこうあるべきだ”って、真剣に語る。

ああいう芯がある人が隣にいるとね、私も負けないように、ちょっと真っすぐになるのよ」


「あなたの“穴の空いた器”みたいに綺麗な例えは浮かばないけど、私達は正反対だからこそ、お互い惹かれ合うのかもね」


話の途中から、直子も目を背けていた。それだけで飾りのない言葉だと感じ取れる。


「ほら、星月夜とエルドランの封印の話!

あの2つの作品、絵画と映画、テーマも表現方法も何もかも違うけど、それぞれ誰かの心の穴を塞いでいたんだわ」


龍之介は伏せた目で語る。


「俺はいつからか、自分が心を打たれた“洗練された芸術”こそ至高と捉え、大衆性は芸術性を損なわせる毒だと考えるようになっていた。

でも、直子と会って考えが変わった。

全ての美術作品、いや、美術作品だけじゃない。

料理も、音楽も、小説も、人が勝手に定めた芸術性とは関係なく、誰かの心の穴を塞いでたんだ。

そこに優劣なんてあるわけなかった」


直子は静かに聞いていた。


「直子……」

声が震えたのを自覚した。


「なによ」


「俺は――やっぱり、お前と一緒にいたい」


直子はわざとらしく鼻をかき、頬を赤くした。


「……アンタ、ほんとに面倒くさい。でも、嬉しい」


二人は視線を交わし、同時に笑った。

笑い声が重なる。

違う拍子の音符が、次第に同じリズムを刻んでいくように。



玉という字には、優れて美しいもの。貴いものという意味がある。


歪な僕らは、ぶつかり合って、少しずつ丸くなる。

欠けた器同士だけれど、互いに塞ぎ合えば、いつでも水を注げる。


そして二人はまた、次の休日の喧嘩を約束した。


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