第2章:沈黙の病
最初の違和感は、筆を握る手の小さな震えだった。
「……あれ?」
細い線が思うように引けない。わずかなブレが、構図全体を狂わせる。
だがその日は徹夜明けだったこともあり、ただの疲労だと自分に言い聞かせた。
数日後、コーヒーカップを持つ指が震え、机の上に中身をこぼした。
それでも彼は気づかないふりをした。
“描くこと”に支障が出る、なんてことはあってはならなかったから。
だが現実は容赦なかった。
ペン先を握る指が痺れ、線を引くたびに腕に力が入らなくなっていく。
病院での検査結果は、彼のすべてを凍らせた。
――「進行性の運動ニューロン疾患の可能性が高いですね」
医師の口調は穏やかだったが、その内容はあまりに残酷だった。
原因不明で、治療法は確立されていない。
少しずつ、身体の筋力が失われていく病。
「そんな……冗談ですよね?だって僕、まだ――描かなきゃいけない絵が、たくさんあって……!」
悠は声を震わせ、唇を噛みしめた。
けれど医師は、静かに目を伏せたままだった。
帰り道、空はどこまでも青かった。
そんな美しい空を、彼は「描きたい」と思った。
だが手は、もうその“想い”を形にできるか分からなかった。
アトリエに戻った悠は、震える手でキャンバスに向かう。
だが、線が、引けない。筆が、落ちる。
あの頃のように、自由に、滑らかに――もう描けない。
指先が沈黙した世界で、彼は初めて“終わり”という言葉を突きつけられた。
「どうして、神様は……筆を取り上げたんだろう」
壁にもたれ、涙をこぼす彼を、誰も見ることはなかった。




