93.内緒の恋と、ちょっとした事件
93.内緒の恋と、ちょっとした事件
午後になり、陽翔は教室の模擬店である「クレープ屋」の手伝いに回っていた。
「はい、いちごホイップ、お待たせしました!」
笑顔でクレープを渡す由愛。その横で、陽翔は飲み物担当としてペットボトルを並べていた。
周囲はにぎやかで、誰もが楽しそうにしている。
けれど、陽翔にとっては——
「橘さん、手つき慣れてるな。なんか家でやってた?」
「え、ううん。初めてだけど……陽翔くんが教えてくれたからかな」
「陽翔くん」という呼び方に、近くにいた女子がピクリと反応する。
「……あれ? 今、“陽翔くん”って言った?」
「えっ!? あ、あはは……聞き間違いじゃないかな〜?」
由愛は慌てて取り繕い、陽翔も咄嗟に咳払いでごまかす。
(やば……完全にバレかけた)
いつの間にか自然になっていた名前呼び。それを「内緒」にしているのは、二人だけの秘密だから。
でも、ちょっとした油断で簡単にバレてしまいそうなこの空気が、なぜか少し楽しくもあった。
「……もうちょっと気をつけような」
「うん、ごめん。でも、つい……嬉しくて」
由愛はそっと小声でつぶやいた。陽翔の鼓動が一段と高鳴る。
その時だった——
「ぎゃあああっ!? クレープ焼いてるフライパンが! 火ぃ出たぞ!」
突然、教室の隅で小さな悲鳴が上がった。
見れば、ホイップを足そうとしていた男子が鉄板に布巾を落とし、焦げた煙が立ちのぼっていた。
「うわっ、これ消さないと……!」
陽翔が急いで濡れタオルを掴んで駆け寄る。由愛も後ろから心配そうに追いかけてくる。
「陽翔くん、やけどしないでっ!」
「平気、任せろって!」
手際よく火を抑え、状況を鎮めた陽翔に、クラスの皆が拍手を送る。
「すごいじゃん、藤崎!」
「なんだよ、カッコいいとこ見せやがって〜」
そんな声が飛ぶ中、陽翔はこっそりと由愛の方を振り返った。
彼女は、安堵の表情で小さくうなずき、口元でそっと「ありがとう」とつぶやく。
ふと、二人の視線が重なり、また世界が二人きりになる。
(……こういう時に、やっぱり好きだなって思う)
ドキドキが止まらないのは、暑さのせいでも騒ぎのせいでもない。
模擬店という日常の中で、二人の距離はまた少し、近づいていた。




