58.踏み出すべき一歩
58.踏み出すべき一歩
由愛の「聞かないんだね」という言葉が、胸の奥にずしりと響く。
彼女は、何を期待していたんだろう。
それとも、ただの気まぐれで言っただけなのか——。
(……違う)
由愛はそんな適当なことを言う人じゃない。
いつも本音を隠しながらも、大事なことは遠回しに伝えてくれる。
だったら——今の言葉の意味は?
陽翔は、自分の中にある迷いと恐れを振り払うように、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、聞くけど」
覚悟を決めて、由愛の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「由愛の、好きな人って……誰なんだ?」
言葉にした瞬間、心臓が痛いほどに高鳴った。
聞いたら、もう後戻りはできない。
それでも、このまま曖昧なままでいるよりは——
由愛は少し驚いたように目を丸くし、それからふっと笑った。
「……ふふっ、やっと聞いてくれた」
小さく呟いて、ふわりと髪を揺らす。
「ねえ、陽翔くん」
「……ん?」
「答え、聞いたら……どうする?」
「え?」
「もし……もしだよ?」
由愛は、一歩だけ陽翔に近づく。
陽翔の肩先に、かすかに指が触れる距離。
「好きな人が、陽翔くんだったら……どうする?」
——心臓が、一瞬で凍りつき、そして一気に熱くなった。
脳が、思考を停止させる。
(今……なんて……)
目の前の由愛の表情は、いつもより少しだけ真剣で。
でも、どこか不安げにも見える。
陽翔は、のどがカラカラに乾くのを感じながら、必死に言葉を探した。
「そ、それは……」
「ふふっ、冗談だったら、どうする?」
由愛は少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
それが、本気なのか冗談なのか——陽翔には、もう分からなかった。
(……でも)
もし、今ここで何も言えなかったら。
この関係は、ずっと曖昧なままで終わってしまう気がする。
だったら——
「……冗談でも、本気でも、関係ない」
陽翔は、意を決して口を開いた。
「俺は——」
言いかけた、その瞬間。
「——橘! ここにいたのか!」
突然、背後から男子の声が響いた。
二人の間の空気が、一瞬にしてかき消される。
「……え?」
由愛が振り向く。
そこには、クラスメイトの男子が立っていた。
「ちょうどよかった! 先生が呼んでるぞ!」
「……あ、うん」
由愛は一瞬だけ迷ったような顔をした後、「ごめん」と小さく言い、男子の方へ歩き出す。
すれ違いざま、ほんの一瞬だけ、由愛の指先が陽翔の手に触れた気がした。
「また……後でね」
それだけ言い残し、由愛は校舎の方へと走っていく。
陽翔は、その背中をただ見送ることしかできなかった。
(……あと、少しだったのに)
胸の奥に、言いようのないもどかしさだけが残った。




