44.名前を呼ぶ距離
44.名前を呼ぶ距離
「……そろそろ寝ないとヤバいな」
スマホの画面を見ると、もう日付が変わる寸前だった。
「そうだね。でも、久しぶりに長電話しちゃった」
由愛が小さく笑う。
「久しぶりって……お前、そんなに電話するタイプなのか?」
「ううん、そんなことないよ。むしろ、こんなに長く誰かと電話するの、藤崎くんが初めてかも」
「……そっか」
その言葉に、なぜか胸が熱くなる。
たぶん、由愛にとって特別なことなんだろう。
そう思うと、嬉しくて、でもどこかくすぐったい。
「……ねえ」
「ん?」
「藤崎くんって、私のことどう呼んでる?」
「……橘、だろ?」
「ふふ、そうだよね。でも、たまには下の名前で呼んでくれてもいいんだよ?」
「は?」
「なんか、クラスのみんなからも『橘』って呼ばれることが多くてさ。だから、たまには『由愛』って呼ばれたいなって」
「……」
スマホを持つ手が少しだけ汗ばむ。
今までずっと「橘」って呼んでたのに、突然「由愛」なんて呼んだら、なんか妙に意識してしまいそうで——。
「……いや、でもなんか照れるだろ」
「じゃあ、今だけ!」
「今だけ?」
「うん、今の電話の間だけでいいから、私のこと名前で呼んでみて?」
由愛の声が、どこか楽しそうに弾んでいる。
(……マジかよ)
心臓が妙にうるさい。
けれど、このまま拒否し続けるのも変な空気になりそうで——。
「……由愛」
「……っ!」
一瞬、息を呑む音が聞こえた。
「……な、なんか新鮮」
「俺も違和感しかない」
「でも、ちょっと嬉しいかも」
そう言って、由愛はくすっと笑った。
その笑い声がやけに心地よくて、陽翔の胸の奥に優しく響く。
「じゃあ、私も呼んでみようかな」
「え?」
「……陽翔」
「っ……!」
まさか、自分の下の名前を呼ばれるとは思っていなかった。
「ふふ、なんか照れてる?」
「……お前、いきなり名前呼ぶのは反則だろ」
「藤崎くんから呼んでくれたんだから、私も呼びたくなっちゃった」
電話越しでもわかる、由愛のいたずらっぽい笑顔。
(……こいつ、ほんとズルいよな)
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ——嬉しい。
「……そろそろ寝るか」
「そうだね。おやすみ、陽翔」
「……おやすみ、由愛」
通話を切ったあとも、陽翔の心臓はずっと鳴り止まらなかった。
(……もう、誤魔化せないよな)
たぶん、俺は——。
そして、きっと由愛も——。
夜の静寂の中で、確かに何かが変わり始めていた。




