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あおはる  作者: 米糠


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青嶺大学編・ 第80話 夏号の完成と発表会



 八月の終わり。ひぐらしの声がどこか遠く、名残惜しげに響いている夕暮れどき。文芸サークル〈ことのは文庫〉の部室では、最後の校正作業が静かに、けれど熱を帯びながら進んでいた。


「……よし、これで入稿、完了」


 彩音がキーボードのEnterキーを押すと、数秒の静寂のあと、部室の中に小さな拍手が生まれた。数時間にわたる集中の余韻が、ふっとほどけていく。


 机の上には、赤ペンでびっしりと書き込まれた原稿、使いかけの付箋、空になった麦茶のグラス、そして折り目のついた文庫本たち。それらすべてが、この夏をかたちづくってきた証のように、夕暮れの光に照らされていた。


 由愛は、自分の原稿のコピーを手にとって、そっと指先で紙の感触を確かめた。


「……これで、余白の夏、ちゃんと残せたかな」


 ぽつりと漏れたその声は、どこか名残惜しく、けれど確かな達成感を帯びていた。


 陽翔は斜め向かいの席からうなずく。彼の掌編も、あの合宿の夜、満天の星の下で言葉を交わした時間をもとにしたものだった。焚き火の火が照らす顔、風にゆれる髪、そして言葉にならなかった想い――それらをどうしても残しておきたかった。


「由愛の作品、きっと誰かの心に残るよ。……俺が、そうだったみたいに」


 そう言った陽翔のまなざしは真っすぐで、由愛は少しだけ目を伏せてから、小さく笑った。


「ありがとう。……陽翔のも、すごくよかったよ。“言葉のない対話”って表現、なんだか今のふたりみたいだなって思った」


 一瞬、陽翔の呼吸が止まる。何かを言おうとして、けれどそれを呑み込んで、代わりにやわらかな笑みを返した。


 ことばにならなかった想い。すれ違い、すこし距離ができていた時間。でも、いまここにある沈黙は、かつてのそれとは違っていた。言葉がなくても、なにかが伝わっている。そんな手応えが確かにあった。


 ⸻


 数日後の発表会。部室に隣接する小さなプレゼンテーションルームには、涼しげな服装の学生たちが集まり、手には印刷されたばかりの夏号が握られていた。


 壁に貼られたポスターには「ことのは文庫 夏の特別号『余白』発表会」の文字。スライドと朗読による発表が始まり、部屋の空気が次第に物語の世界へと染まっていく。


 やがて由愛の番が回ってくる。緊張した面持ちで前に立ち、自作の掌編の一節を読み始めた。視線の先には、冊子を開いた陽翔の姿。その存在が、心を落ち着かせてくれる。


 ――夏の夜。言えなかった一言が、胸の奥で静かに響いていた。

 夜風が、答えのようにそっと吹いた。


 読み終えると同時に、ふっと静寂が降り、そして次の瞬間にはあたたかな拍手が部屋を包み込んだ。由愛は、ゆっくりと深くお辞儀をしてから、静かに席へ戻る。


 陽翔の隣に腰を下ろすと、少し照れくさそうに、小さな声で呟いた。


「……少しは、届いたかな」


「うん。俺のところには、ちゃんと届いたよ」


 ふたりは短く視線を交わすだけで、それ以上言葉を交わさなかった。でも、それだけで十分だった。

 ことばにならない想いが、たしかにそこにあった。


 その夏の“余白”は、誰かの胸にそっと残り、また別の物語へとつながっていく。

 青嶺の夏は、静かに、でも確かに、誰かの未来を照らし始めていた。


 ――


 八月も終わりに近づき、夕暮れのキャンパスに流れる空気が、少しずつ秋の気配を帯びはじめていた。


 文芸サークル〈ことのは文庫〉の部室近くの掲示板には、ひときわ目を引くポスターが貼られていた。


 《第14回 青嶺短編文学賞 募集開始》


 その前で立ち止まり、じっと見上げる学生の姿が日に日に増えている。足を止める者たちの表情には、期待や不安、そしてほんの少しの決意がにじんでいた。


 提出締切まで、あと十日。


 部室では、自然とその話題が出るようになっていた。


「先輩たち、出すんですか?」


 陽真がそう口にしたのは、放課後のひととき。夕日が差し込む部屋のなかで、扇風機の音がゆるやかに回っていた。


 彩音は原稿用紙をぱたんと閉じて、迷いのない声で答えた。


「もちろん。毎年出してるし、今年は特に、夏号で手応えあったからね」


 彼女の目は冴えていた。編集者としても書き手としても、勝負の一本を本気で仕上げようとしている空気が、言葉の端々に宿っていた。


「……私も、挑戦してみようかな」


 静かにそう言ったのは、悠里だった。彼女の前には、まだ白紙のノートが一冊あるだけ。けれどその指先は、少しずつ開きかけた扉に手を伸ばそうとしていた。


「読んでたばかりの側だったから、ずっと迷ってたけど……夏に出会った子どもたちの表情が、頭から離れなくて。まだ形になってないけど、何か書いてみたいって思ったの」


 その言葉に、陽翔は静かにうなずいた。


 彼自身は、すでに数ページの草稿を書き上げていた。タイトルは『ことばの余白』。夏号で描いた「余白」の先に、もっと深く踏み込むような、自分自身の心の奥を見つめる物語だった。


「……正直、まだ迷ってるけど。でも、今の自分に書けることはある気がしてる」


 陽翔は窓辺に目をやりながら、そうつぶやいた。西の空に沈みかけた太陽の光が、彼のノートの端を金色に照らしていた。


 その横顔を、由愛は静かに見つめていた。


 彼の言葉が好きだった。真っすぐで、少し不器用で、でもどこか祈るようにやさしい。今度はその言葉が、どんな物語を紡ごうとしているのか。想像するだけで、胸の奥がふっと熱を帯びる。


「ねえ、陽翔」


「ん?」


「わたしも、出そうかな。まだ形になってないけど……この夏、たくさんのことを感じたから。うまく言えるかわからないけど、言葉にしてみたいって思ったの」


 陽翔は少し驚いたように目を開き、それから嬉しそうに笑った。


「一緒に出そう。きっとそれぞれ違うかたちで、この夏を残せると思うから」


 それは、どこか約束のような言葉だった。


 夕暮れの空に蝉の声がかすかに重なり、やがてどこか遠くへと去っていった。

 夏の終わりは、静かに訪れている。


 けれどその静けさの中で、ふたりの胸にはたしかな何かが芽生えはじめていた。

 終わりではなく、始まりとしての夏――ことばが生まれ、誰かに届こうとする、小さな予感のような時間が、青嶺の空に広がっていた。

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