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あおはる  作者: 米糠


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青嶺大学編・ 第77話 クローバー・子どもキャンプ


 別の日。夏空が澄み渡り、白い雲がゆったりと高原を流れていた。クローバーのメンバーたちは、高原にある自然体験施設で行われる子どもキャンプにボランティアとして同行していた。


 遠くから響く蝉の声、草いきれを含んだ風、そして踏みしめるたびにざわめく雑草の音。夏の自然が、まるで子どもたちの到着を歓迎するかのように、賑やかにそこにあった。


 「みんな、虫取り網、持った?  はぐれないようにねー!」


 陽真の明るい声が、青空の下に伸びやかに響いた。真っ白な帽子をかぶった彼は、子どもたちの列を見守りながら、満面の笑みを浮かべていた。その声につられるように、「はーい!」と返す元気な声がいくつも重なり、笑い声が夏の空気に跳ねていく。


 陽真は、すばしこく動き回る子どもたちの中を器用に行き来しながら、靴紐がほどけた子に声をかけたり、虫網の使い方を実演して見せたりと、まるで自然の中のガイドのように溶け込んでいた。


 けれど、すべての子どもがすぐに馴染めるわけではない。少し離れた場所で立ち止まり、虫網をぎゅっと握りしめたまま動けないでいる小さな女の子。そのそばに、由愛が静かにしゃがみこんだ。


 「ほら、虫除け、ちゃんとしておこうね」


 由愛は、穏やかな声で話しかけながら、手のひらにそっとスプレーを吹きかけた。ふわりと漂う柑橘系の香りに、女の子の眉がわずかにほどける。


 「大丈夫。わたしも、小さい頃こういうの、ちょっと苦手だったの。虫の声とか、土の匂いとか……慣れるまで、ちょっと時間がかかったよ。でもね、ちょっとずつでいいんだよ」


 その声には、経験からくる確かなやさしさと、心の距離を縮める温もりがあった。女の子は、しばらく黙ったまま由愛の顔を見つめていたが、やがて小さくうなずき、ぎゅっと虫網を握り直した。


 少し離れた木陰では、悠里が一人の男の子の手を引いていた。男の子は、少し緊張した面持ちで、まわりのにぎやかさから一歩引いていた。悠里はそんな彼に、しゃがんで目線を合わせ、柔らかな声で話しかけた。


 「ねえ、あの葉っぱ、ちょっとハートの形に見えない? ふたりで、面白い形の葉っぱ、探してみない?」


 その声は、静かで、でも不思議と安心感があった。男の子は戸惑いながらも、視線を葉っぱへと向け、そしてそっと手を伸ばした。小さな指が、悠里の手を握り返したとき、その目にはほんの少しだけ、好奇心の光が戻っていた。


 陽翔は、少し離れたところから、その様子を静かに見守っていた。陽真の奔放な明るさ、由愛の寄り添うまなざし、悠里の包みこむような接し方。それぞれが、それぞれの方法で、子どもたちと向き合っていた。


 ――教室じゃない場所でこそ、見えるものがある。


 子どもたちの笑顔や不安、そこに寄り添う仲間の姿、そしてそれを見つめる自分自身。自然の中で交わされる小さなやりとりが、陽翔の胸の奥で、ゆっくりと、でも確かに形をなしていった。


 それは、未来の教師としての視点であり、ひとりの人間としてのまなざしでもあった。


 ――この夏も、きっと何かを残してくれる。


 そんな予感が、深呼吸した胸の奥に、ほんの少しだけ温かく残った。



 高原の空が、ゆっくりと茜色に染まり始めていた。バスの窓から差し込む柔らかな夕陽が、子どもたちの髪や頬をほんのり金色に染め、うつらうつらとまどろむ寝顔に静かなぬくもりを与えていた。今日一日、思いきり遊び、笑い、泣いた子どもたち。その小さな体から、満ち足りた疲労の気配が漂っていた。


 車内は、エンジン音と、時折シートがきしむ音以外、ほとんど無音だった。まるで今日一日を締めくくる静けさが、自然に訪れたようだった。


 最後列の席に座る陽翔は、隣で寄りかかるように眠っている由愛の横顔に、そっと目を向けた。額にかかった髪が、かすかな風に揺れている。それを指先で静かに払ってやると、彼女のまつげが、わずかに震えた。


 「……ありがとうな、由愛。今回も、すごく助けられたよ」


 囁くように言うと、由愛は目を細く開けて、ふわりと微笑んだ。どこか夢と現のあいだにいるような表情だった。


 「……寝てないよ、ちゃんと聞いてた」


 「ほんとに?  さっきから完全に夢の世界にいた気がするけど」


 「うん……ちょっとだけ。でも……なんか、夢みたいだったな」


 由愛は、窓の外をぼんやりと眺めながら続けた。


 「子どもたちと遊んで、笑って、時々泣いて……そのひとつひとつが、すごくまっすぐで。こういう時間のなかに、未来があるんだなって、思ったの」


 その言葉に、陽翔は驚き半分、感心半分といった面持ちで彼女を見つめた。


 「……未来、か」


 呟くように繰り返し、少しの沈黙ののち、ふっと目を細める。


 「分かる気がするよ。……俺もさ、ひとりの子が、なかなか輪に入れなかったのを見て、何かしてあげたくて。でも結局、隣に座って黙って一緒に空を見上げてただけなんだけど……それでもその子、笑ってくれたんだ。あの瞬間が、すごく嬉しくて」


 由愛は「うん」とだけ言って、彼の肩にそっと頭を預けた。


 その前の席では、悠里が眠気にまぶたを落としつつも、小さくあくびを噛み殺しながらノートを取り出していた。表紙には、丁寧に貼られた四葉のクローバーのシールがあった。


 陽真がそれを見て、目をぱっちりと見開く。


 「悠里ちゃん、また書くの?  今、このバスの中で?」


 悠里は小さく笑ってうなずいた。「うん。今日の子どもたちの表情とか、会話とか……思い出せるうちに書きたいなって。時間がたつと、ぜんぶ薄れてしまいそうで……」


 陽真も刺激を受けたように、自分のバッグからくしゃっとなったメモ帳を引っ張り出した。


 「ぼくも書こうかな……あの、虫を捕まえた子のこと、めっちゃかっこよかったんだよ。『生きものは、最初にじっと見るのがコツなんだよ!』って……すごかった……」


 「それ、いいね」と悠里が微笑むと、陽真は嬉しそうにペンを走らせ始める。


 夕焼けが、バスの中をゆっくり染めていく。少しずつ重なる言葉の音、ページをめくるかすかな音、寝息の合間に響く筆記具の音。それらが、まるで一篇の詩のように、帰り道の静けさを包んでいた。


 誰もがそれぞれの形で、この一日を胸に刻もうとしていた。


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