表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あおはる  作者: 米糠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

246/250

青嶺大学編・ 第76話 文芸サークル合宿・山の民宿



 数日後。夏の匂いを含んだ風が、木々の間を抜けて吹き抜けるなか、文芸サークルのメンバーたちは山あいの静かな民宿に到着した。山の斜面に沿って建てられた木造の宿は、どこか懐かしさを感じさせる佇まいで、周囲は一面の緑に包まれている。小川のせせらぎと、鳥のさえずりが微かに耳をくすぐった。


 「うわー……空気、きれい……!」


 荷物を肩から降ろした由愛が、目を閉じて深く深呼吸をする。湿った土の匂い、陽に温められた葉の香り、遠くの川の水音——それらすべてが、彼女の中にすっと染み込んでくる。


 少し後ろを歩いていた悠里は、まだ緊張を隠しきれない様子だった。けれど、胸に抱えるノートをぎゅっと握り直し、そっとつぶやく。


 「……ここで、また“書く”んですね。ちょっと、楽しみです」


 その声は風に溶けるように小さく、けれど確かな光を帯びていた。


 縁側に腰かけていた久住彩音は、浴衣姿のまま手書きの課題プリントを一枚ずつ配っていた。いつもより柔らかな口調で、穏やかな笑みを浮かべる。


 「この自然の中で感じたことを、素直に書いてみてください。五感をつかって、風や音、匂いを感じながら。ことばって、こういう“静かな時間”のなかでこそ育つものよ」


 夕暮れ時。オレンジ色に染まった山々を背景に、メンバーたちは思い思いの場所へ散っていった。縁側に膝を抱えて座る者、庭の石に腰かける者、草むらに寝転ぶ者、小道の先に立ち尽くす者——誰もがペンを片手に、静かに「自分だけの時間」に入っていた。


 風が、ページの端をそっとめくる。鳥の羽ばたきが、思考を呼び起こす。沈黙が、言葉を引き出してくれる。


 夜が更ける頃、空には満天の星が広がっていた。民宿の裏庭に組まれた焚き火を囲んで、ひとつまたひとつと、火がはぜる音と虫の声だけが夜を彩っていた。


 その中で、読み合わせの時間が始まった。


 「……じゃあ、僕から読んでいいかな」


 陽翔が、手元のノートを静かに開く。焚き火の炎が彼の顔に淡い陰影をつくり、その横顔に皆の視線が集まる。


 彼が読み始めたのは、昼間の山道で出会った一輪の白い花についてのエッセイだった。それは、ふと立ち止まったときに見つけた、小さな存在の美しさに気づかされた瞬間を綴ったものだった。無意識に通り過ぎてしまいそうなものに心を止めるという行為が、どれほど豊かな感受性を育むか——そのことが、言葉の端々に滲んでいた。


 由愛は、焚き火の灯りのなかで静かに彼の横顔を見つめていた。どこか遠くを見つめるように語るその声に、彼の「今」が重なって聞こえる気がしていた。


 読み終えると、静けさのなかで一瞬の間があった。誰かが息を呑む音が聞こえるほど、場は深く引き込まれていた。


 やがて、彩音が口を開いた。


 「……陽翔くん。やっぱりあなたの文章は、感情の輪郭がはっきりしてる。風景を描く中で、ちゃんと“自分”の心の動きも見つめてる。……それが、読む人の心を揺らすのよ」


 陽翔は少し照れくさそうに笑いながら、ノートをそっと閉じた。


 焚き火のまわりには、穏やかな沈黙が漂っていた。火の粉がふわりと舞い上がり、星空へと吸い込まれていく。


 言葉を交わさなくても、誰もが今この瞬間、「書くこと」と真正面から向き合っている——その空気が、確かにそこにあった。



 合宿三日目の朝。山の斜面に差し込む朝日が、民宿の木の床を金色に染めていた。蝉の声が遠くで響き始め、夜露をまとった草の匂いがほんのり窓のすき間から漂ってくる。


 「……あっという間、だったね」


 由愛が縁側に座りながら、ノートをぱらぱらとめくる。昨日の夜に書き綴った文章は、どれも自然に寄り添い、心の奥にある静かな感情を言葉に変えたものだった。


 隣に腰かけた悠里も、自分のノートを大事そうに抱きしめていた。


 「わたし、書けるか不安だったけど……書いてみてよかったです。ちゃんと、自分の“中”を見られた気がして」


 由愛はそっと微笑み、うなずいた。


 「悠里の言葉、とても優しくて、でも芯があるよ。……きっと、誰かの気持ちに届くと思う」


 その言葉に、悠里は目を伏せながらも、頬をほのかに赤く染めていた。


 宿の食堂では、最後の朝食を囲みながら、簡単な振り返りと作品発表の時間が設けられた。テーブルの上には、各自がこの合宿で仕上げた作品が並べられている。


 彩音が一人ひとりに目を配りながら言った。


 「合宿で生まれた言葉たち、どれも“今のあなたたち”が詰まっていて、すごく良かった。誰かに見せることだけが目的じゃない。“書く”って、自分を知るための旅でもあるから。……どうか、今日のこの気持ちを、帰っても忘れないでね」


 そして、簡単な感想の共有タイムへ。


 陽翔は、由愛の文章に静かに手を挙げて言った。


 「今回の由愛の作品、……言葉がすごくやわらかくて、読んでると、気持ちがほどけていく感じがした。自然と子どもたちの風景が、重なるところもあって、今の由愛らしいなって思った」


 由愛は少し驚きながらも、照れくさそうに微笑んだ。


 「ありがとう……そう言ってもらえて嬉しい。書いてるとき、キャンプの子どもたちの顔が自然に浮かんできたの。あの子たちが、教えてくれた気がするんだ。“見る”ことの大切さを」


 一方、悠里の詩に感想を述べたのは、陽真だった。


 「悠里ちゃんの詩、……風景のなかにある感情が、すごく伝わってきました。静かな朝の描写とか、読んでるだけで、その場にいる気持ちになって……自分も書いてみたくなりました」


 悠里は恥ずかしそうにうつむいたが、目元には確かな笑みが浮かんでいた。


 「……ありがとう。わたし、言葉で伝えるの、苦手だと思ってた。でも……伝えたいことって、あるんだなって、思えた合宿でした」


 窓の外には、夏の陽射しが一層まぶしくなっていた。


 合宿の終わりは、別れではなく、また“書くこと”に向き合う始まりのように感じられた。誰もがノートとペンを胸にしまい、また日常へと戻っていく——けれど、その心には確かに、山の風と、夜の焚き火のぬくもりが残っていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ