青嶺大学編・ 第76話 文芸サークル合宿・山の民宿
数日後。夏の匂いを含んだ風が、木々の間を抜けて吹き抜けるなか、文芸サークルのメンバーたちは山あいの静かな民宿に到着した。山の斜面に沿って建てられた木造の宿は、どこか懐かしさを感じさせる佇まいで、周囲は一面の緑に包まれている。小川のせせらぎと、鳥のさえずりが微かに耳をくすぐった。
「うわー……空気、きれい……!」
荷物を肩から降ろした由愛が、目を閉じて深く深呼吸をする。湿った土の匂い、陽に温められた葉の香り、遠くの川の水音——それらすべてが、彼女の中にすっと染み込んでくる。
少し後ろを歩いていた悠里は、まだ緊張を隠しきれない様子だった。けれど、胸に抱えるノートをぎゅっと握り直し、そっとつぶやく。
「……ここで、また“書く”んですね。ちょっと、楽しみです」
その声は風に溶けるように小さく、けれど確かな光を帯びていた。
縁側に腰かけていた久住彩音は、浴衣姿のまま手書きの課題プリントを一枚ずつ配っていた。いつもより柔らかな口調で、穏やかな笑みを浮かべる。
「この自然の中で感じたことを、素直に書いてみてください。五感をつかって、風や音、匂いを感じながら。ことばって、こういう“静かな時間”のなかでこそ育つものよ」
夕暮れ時。オレンジ色に染まった山々を背景に、メンバーたちは思い思いの場所へ散っていった。縁側に膝を抱えて座る者、庭の石に腰かける者、草むらに寝転ぶ者、小道の先に立ち尽くす者——誰もがペンを片手に、静かに「自分だけの時間」に入っていた。
風が、ページの端をそっとめくる。鳥の羽ばたきが、思考を呼び起こす。沈黙が、言葉を引き出してくれる。
夜が更ける頃、空には満天の星が広がっていた。民宿の裏庭に組まれた焚き火を囲んで、ひとつまたひとつと、火がはぜる音と虫の声だけが夜を彩っていた。
その中で、読み合わせの時間が始まった。
「……じゃあ、僕から読んでいいかな」
陽翔が、手元のノートを静かに開く。焚き火の炎が彼の顔に淡い陰影をつくり、その横顔に皆の視線が集まる。
彼が読み始めたのは、昼間の山道で出会った一輪の白い花についてのエッセイだった。それは、ふと立ち止まったときに見つけた、小さな存在の美しさに気づかされた瞬間を綴ったものだった。無意識に通り過ぎてしまいそうなものに心を止めるという行為が、どれほど豊かな感受性を育むか——そのことが、言葉の端々に滲んでいた。
由愛は、焚き火の灯りのなかで静かに彼の横顔を見つめていた。どこか遠くを見つめるように語るその声に、彼の「今」が重なって聞こえる気がしていた。
読み終えると、静けさのなかで一瞬の間があった。誰かが息を呑む音が聞こえるほど、場は深く引き込まれていた。
やがて、彩音が口を開いた。
「……陽翔くん。やっぱりあなたの文章は、感情の輪郭がはっきりしてる。風景を描く中で、ちゃんと“自分”の心の動きも見つめてる。……それが、読む人の心を揺らすのよ」
陽翔は少し照れくさそうに笑いながら、ノートをそっと閉じた。
焚き火のまわりには、穏やかな沈黙が漂っていた。火の粉がふわりと舞い上がり、星空へと吸い込まれていく。
言葉を交わさなくても、誰もが今この瞬間、「書くこと」と真正面から向き合っている——その空気が、確かにそこにあった。
合宿三日目の朝。山の斜面に差し込む朝日が、民宿の木の床を金色に染めていた。蝉の声が遠くで響き始め、夜露をまとった草の匂いがほんのり窓のすき間から漂ってくる。
「……あっという間、だったね」
由愛が縁側に座りながら、ノートをぱらぱらとめくる。昨日の夜に書き綴った文章は、どれも自然に寄り添い、心の奥にある静かな感情を言葉に変えたものだった。
隣に腰かけた悠里も、自分のノートを大事そうに抱きしめていた。
「わたし、書けるか不安だったけど……書いてみてよかったです。ちゃんと、自分の“中”を見られた気がして」
由愛はそっと微笑み、うなずいた。
「悠里の言葉、とても優しくて、でも芯があるよ。……きっと、誰かの気持ちに届くと思う」
その言葉に、悠里は目を伏せながらも、頬をほのかに赤く染めていた。
宿の食堂では、最後の朝食を囲みながら、簡単な振り返りと作品発表の時間が設けられた。テーブルの上には、各自がこの合宿で仕上げた作品が並べられている。
彩音が一人ひとりに目を配りながら言った。
「合宿で生まれた言葉たち、どれも“今のあなたたち”が詰まっていて、すごく良かった。誰かに見せることだけが目的じゃない。“書く”って、自分を知るための旅でもあるから。……どうか、今日のこの気持ちを、帰っても忘れないでね」
そして、簡単な感想の共有タイムへ。
陽翔は、由愛の文章に静かに手を挙げて言った。
「今回の由愛の作品、……言葉がすごくやわらかくて、読んでると、気持ちがほどけていく感じがした。自然と子どもたちの風景が、重なるところもあって、今の由愛らしいなって思った」
由愛は少し驚きながらも、照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう……そう言ってもらえて嬉しい。書いてるとき、キャンプの子どもたちの顔が自然に浮かんできたの。あの子たちが、教えてくれた気がするんだ。“見る”ことの大切さを」
一方、悠里の詩に感想を述べたのは、陽真だった。
「悠里ちゃんの詩、……風景のなかにある感情が、すごく伝わってきました。静かな朝の描写とか、読んでるだけで、その場にいる気持ちになって……自分も書いてみたくなりました」
悠里は恥ずかしそうにうつむいたが、目元には確かな笑みが浮かんでいた。
「……ありがとう。わたし、言葉で伝えるの、苦手だと思ってた。でも……伝えたいことって、あるんだなって、思えた合宿でした」
窓の外には、夏の陽射しが一層まぶしくなっていた。
合宿の終わりは、別れではなく、また“書くこと”に向き合う始まりのように感じられた。誰もがノートとペンを胸にしまい、また日常へと戻っていく——けれど、その心には確かに、山の風と、夜の焚き火のぬくもりが残っていた。




