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あおはる  作者: 米糠


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青嶺大学編・ 第75話 前期末試験・キャンパス

 青嶺大学編・ 第75話 前期末試験・キャンパス



 夏の気配が濃くなり始めたキャンパス。窓の外では蝉が鳴きはじめ、教室の中はエアコンの低いうなり音と、ページをめくる音だけが支配していた。最後の一枚――教育実習に関する記述問題にペンを走らせる陽翔の表情は真剣そのものだった。


 タイマーのアラーム音と同時に、「はい、そこまでです。解答用紙を前に」と教授の声が響く。


 陽翔はペンを置き、深く息を吐いた。重たい肩の力が、じんわりと抜けていくのがわかった。


「……よし、これで全部、出し切った」


 席を立ち、試験会場から出ると、陽翔は額の汗をぬぐいながら大きく伸びをした。後ろから出てきた由愛も、少しだけ顔を上げてにっこりと笑う。


「おつかれ、陽翔。頑張ったね」


「うん、由愛も。……ついに、終わったな」


「うん。なんか、実感ないけど……でも、確かに終わったんだよね」


 二人は並んで階段を降り、校舎の玄関を抜ける。外に出ると、真っ青な空と強い陽射しが出迎えた。


 アスファルトから立ち上る熱気と、風に揺れる木の葉のざわめき。騒がしい蝉の声さえも、今日はどこか心地よく感じられた。


「……青空、まぶしいな」


「うん。目が覚めるくらい」


 ふたりは一瞬立ち止まり、夏空を見上げた。


「試験、たいへんだったけどさ。今まででいちばん、“意味のある”勉強だった気がする」


「うん。教育実習も近づいてるし……なんか、少しずつ“先生”に近づいてる気がするよね」


 少し汗ばんだ手と手が、自然と触れ合う。ふたりは顔を見合わせ、照れくさそうに笑った。


「……やっと、夏休みだな」


「うん。せっかくだし、たくさん思い出つくろうね」


 そう言って歩き出す背中には、試験を終えた安堵と、これから始まる季節への静かな期待がにじんでいた。




 数日後、夏の匂いを含んだ風が吹くなか、文芸サークルのメンバーたちは山あいの静かな民宿に到着した。周囲は緑に包まれ、小川のせせらぎがかすかに耳に届く。


「うわー……空気、きれい……!」


 荷物を降ろした由愛が、目を閉じて深く深呼吸をする。山の湿った香りと土の匂いを胸いっぱいに吸い込み、心がすうっと落ち着いていくのを感じていた。


 少し後ろを歩く悠里は、まだ少し緊張した面持ちで、合宿用に持参したノートを胸に抱いていた。


「……ここで、また“書く”んですね。ちょっと、楽しみです」


 彼女の声は小さく、でもどこか期待に満ちていた。


 宿の縁側では、久住彩音が手書きの課題プリントを一枚ずつ配っていた。浴衣姿の彼女は、いつも以上に柔らかな雰囲気をまとっていた。


「この自然の中で感じたことを、素直に書いてみてください。五感を使って、風や音、匂いを感じながらね。ことばって、こういう時間の中でこそ、育つと思うの」


 夕暮れ時。メンバーたちはそれぞれ静かな場所を見つけてノートを開いた。縁側に座る者、庭の石に腰かける者、小道の先で草をなびかせる者。誰もが静かに、言葉を探す時間に浸っていた。


 夜が更け、空には満天の星。宿の裏庭に組まれた小さな焚き火のまわりに、皆が集まっていた。パチパチと薪がはぜる音と、虫の声だけが響く中で、読み合わせの時間が始まった。


「……じゃあ、僕から読んでいいかな」


 陽翔が手元のノートをそっと開く。焚き火の灯りが彼の表情をゆらゆらと照らす。


 彼が朗読を始めると、皆が自然と耳を傾けた。彼の文章には、昼間の山道で見つけた一輪の花の話が織り込まれていた。それは、ふと立ち止まった自分の心に語りかけてくれたような、小さな気づきを綴ったものだった。


 由愛は、焚き火の灯りの中でそっと彼の横顔を見つめながら、その声に静かに耳を傾けていた。


 読み終えると、彩音がそっと頷いた。


「……陽翔くん。やっぱりあなたの文章は、感情の輪郭がはっきりしてる。風景を描きながら、ちゃんと“自分”も見つめてるのね」


 陽翔は少し照れくさそうに笑い、ノートを閉じた。


 焚き火のまわりには、穏やかな沈黙と、ほんの少しだけ肌寒い山の夜の空気が漂っていた。


 言葉を交わさなくても、誰もが確かに「書くこと」と向き合っていた。




 一方、別の日。夏空の下、クローバーのメンバーたちは、高原にある自然体験施設で行われる子どもキャンプに同行していた。遠くで蝉の声が響き、草の匂いが風に乗って運ばれてくる。


「みんな、虫取り網、持った?  はぐれないようにねー!」


 陽真の明るい声が高原に響く。真っ白な帽子をかぶった彼は、笑顔で子どもたちの列を見渡していた。元気に「はーい!」と返す声がいくつも返ってくる。その様子はまるで、夏の音楽のようだった。


 陽真の声につられて笑いながら駆け出す子もいれば、少し戸惑って立ち止まる子もいた。そんなひとりの子のそばに、由愛が静かにしゃがみこむ。


「ほら、虫除け、ちゃんとしておこうね。大丈夫。わたしも、小さい頃こういうの、ちょっと苦手だったの」


 優しい声に、子どもは小さく頷いた。由愛は笑顔のまま、手の甲にそっとスプレーを吹きかける。自分の経験から出たその言葉は、目の前の子どもに、そっと寄り添っていた。


 少し離れた木陰では、悠里が一人の男の子の手を引いていた。虫取りよりも少し怖そうな顔をしている子に向けて、穏やかに語りかける。


「ほら、あの葉っぱ、ちょっとハートの形に見えない? 一緒に探してみようか。……ひとりじゃないって、わかると安心するよね」


 男の子は、不安げな表情を少しずつゆるめていき、悠里の手を握り返した。


 陽翔はそんなふたりの様子を、少し離れた場所から静かに見守っていた。子どもたちの笑顔、手をつなぐ小さな指、そして何より、由愛や悠里、陽真のまなざし。そのすべてが、この夏の一瞬を確かなものにしていた。


 ――教室じゃない場所でこそ、見えるものがある。


 自然の中で、子どもたちと、仲間と、そして自分自身と向き合う時間。陽翔は、胸の奥で何かが静かに形になるのを感じていた。


 きっと、この夏も、自分たちに何かを残してくれる。


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