青嶺大学編・第61話 初詣 初日の光
青嶺大学編・第61話 初詣 初日の光
年が明けてまもなくの神社の境内は、初詣客のざわめきと笑い声に包まれていた。石畳の参道には人の列ができ、息を弾ませながら手を合わせる人々の姿がちらほらと見える。
境内に立ちのぼる白い吐息の群れ。その向こうで、屋台の明かりが赤や橙の灯を揺らし、甘酒や焼き餅の香ばしい匂いがほのかに漂っていた。雪こそ積もっていないが、空気には凛とした冷たさがあり、それがかえって幻想的な雰囲気を作り出していた。
陽翔と由愛は、再び自然に手をつなぎ合って、参道をゆっくりと歩いていた。手袋越しでも伝わるぬくもりは、寒さの中でいっそう愛おしく感じられる。
「……あっという間に、年が明けちゃったね」
由愛の声は、夜の冷たい空気に静かに溶けていく。振り返るように口にされたその言葉には、どこか晴れやかな感情と、ほんの少しの名残惜しさが混じっていた。
「去年の今ごろは、まだ受験のことばかり考えてたのに」
「うん。でも、あの時があったから……今こうして、隣にいられるんだよな」
陽翔がふと横を向いて言ったその言葉に、由愛は驚いたように、でもすぐに柔らかく頷いた。顔を赤く染めながら、小さく笑みを浮かべる。
ふたりはやがて、人の波を避けるようにして、境内の隅にある小さな腰掛けのある場所へと足を運んだ。ちょうどそこには焚き火があり、ぱちぱちと木がはぜる音が静けさの中に響いている。
腰を下ろし、手にしていた甘酒の紙コップにそっと口をつける。湯気がふわりと顔にかかり、鼻をくすぐるような優しい甘さが体の内側をじんわりと温めていく。
「ね、陽翔。今年は、もう少しちゃんと、自分のこと考えてみようと思うの。将来のこととか……どんなふうに生きていきたいかとか」
由愛の声は、火の揺らめきに包まれるようにして静かだった。でもその瞳には、たしかな意志が宿っていた。
陽翔はしばらく彼女の横顔を見つめていたが、やがて目を細めるようにしてうなずいた。
「うん。俺も。焦らなくていいけど、少しずつでも考えていけたらいいよな。今だけじゃなくて、その先のことも……ちゃんと考えてみたいって、最近思うようになった」
焚き火の火が、ふたりの顔をあたたかく照らしている。由愛は甘酒を両手で包んだまま、そっと陽翔の肩に体を寄せた。彼のぬくもりが、寒さの中でじんわりと染み渡るようだった。
言葉を交わさなくても、心の奥深いところで、ふたりは繋がっているとわかる。何かを急ぐ必要はない。変わっていく時間のなかで、自分たちなりの歩幅で進んでいければ、それでいい。
そう思える静けさが、今のふたりを包み込んでいた。
空を見上げると、夜明け前の東の空が、ほのかに白み始めていた。群青色の空が少しずつ淡く溶けていくその様子は、まるで新しい一年が、静かに、でも確かにその輪郭を現そうとしているようだった。
境内のざわめきも次第に落ち着きを見せ、空気がふっと軽くなる。陽翔と由愛は焚き火のそばから立ち上がり、もう一度、空を仰いだ。
「初日の出、見に行く?」
由愛がぽつりとつぶやくように問いかけた。唇から立ちのぼる白い吐息が、冷たい空気にしばらく浮かび、消えていく。
陽翔はその横顔を見て、穏やかな笑みを浮かべた。凍える空気の中でも、彼女の言葉はどこかあたたかかった。
「うん。いちばん高い坂道、あのときみたいにさ」
ふたりが一緒に初日の出を見に行った、受験前の冬の朝を思い出しながら、言葉を交わす。その記憶が、今とやさしく重なっていく。
ふたりは自然と手をつないだまま、境内を後にした。まだ夜の色が濃く残る町並みは、静まり返っていて、車の音も、遠くの話し声も聞こえない。しんとしたその空気の中を、ふたりの靴音だけが、石畳の上に小さく響いた。
坂道にさしかかると、冷たい風が吹き抜け、思わず肩をすくめそうになる。でも、つないだ手のぬくもりは、まるでそれを忘れさせるように、しっかりと温かかった。
ふたりで一歩ずつ登っていく坂の途中、空の色はゆっくりと変化していく。群青が紺に、そしてやがて、橙の気配を帯びはじめる。
前を歩く由愛の髪が、朝の光を待つ風にやさしく揺れた。陽翔はその背中を見つめながら、心の中でそっと思った――今年も、こんなふうに、隣で笑っていてくれたらいい、と。
ふたりの足音は、少しずつ空へと近づいていくように、静かな町の中にやさしく続いていった。
坂を登り切った先に広がっていたのは、小さな見晴らしのよい広場だった。街を一望できるその場所は、まだ人影もなく、冬枯れた草が風に揺れているだけだった。
由愛が「ここ、覚えてる」と小さく笑う。かつて、受験のプレッシャーに押し潰されそうだったふたりが、言葉を交わさずとも、ただ一緒に空を見上げたあの朝。いま、その同じ場所に、こうして再び立っている。
「変わってないね、この景色」
由愛の声は、冬の静けさにやわらかく溶け込んだ。眼下には、少しずつ目を覚まし始めた町が広がっている。屋根の上にはうっすらと霜が降り、煙突からは細く白い煙が立ちのぼっていた。
陽翔は手袋ごしに彼女の手をそっと握り直す。
「変わってないけど……たぶん、見え方は少し変わったかもな」
「うん、わたしもそう思う」
ふたりの間に流れる時間は、とても静かだった。でも、その沈黙は決して重くない。むしろ、言葉にしなくても伝わる想いが、そこにはちゃんと存在していた。
やがて、空がふわりと橙色に染まり始めた。山際から一筋の光が差し、世界の輪郭がゆっくりと浮かび上がっていく。その瞬間、ふたりは同時に、息を呑んだ。
「……きれい」
由愛の瞳には、まっすぐに昇る陽の光が映っていた。その目がまるで、これからの未来を見つめているように、陽翔には思えた。
「……新しい一年が、始まったんだな」
陽翔がぽつりと呟くと、由愛はそっと頷いた。
「どんな年になるかな。……でも、きっと、大丈夫。ふたりなら」
陽翔はその言葉に、小さく笑って「うん」と返した。
手をつないだまま、初日の光を浴びるふたりの影が、長く、地面に伸びていた。あたたかくも凛とした空気の中、ふたりは並んで、新しい朝を迎えていた。変わっていく季節の中で、変わらずに隣にいられる幸せを、胸いっぱいに抱きしめながら――。