青嶺大学編・第59話 冬休み、由愛と陽翔の日帰り旅行
青嶺大学編・第59話 冬休み、由愛と陽翔の日帰り旅行
列車の窓から差し込む冬の光が、静かに揺れる。
朝の遅い時間、すこし冷えた空気のなかを、電車はゆっくりと山間の駅へ向かっていた。
車窓の向こうには、白く霜の降りた畑と、煙を立てる民家の屋根。
まるで時がゆるやかにほどけていくような風景に、由愛は頬杖をついたまま目を細めた。
「……なんだか、不思議だね。高校の頃は、こんなふうにふたりで遠出って、なかった気がする」
隣に座る陽翔が、小さく笑った。
「うん。受験、受験って言って……。でも、それでも楽しかったよな。あの頃の駅前のファミレスとか、放課後の帰り道とか」
「ね。……今でも、思い出すよ。制服のまま、暗くなるまで話してたのとか」
電車の中には他の乗客もいたけれど、その小さな空間のなかで、ふたりの記憶だけが静かに呼吸していた。
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温泉街の駅を降りると、澄んだ空気とともに、ふわりと硫黄の匂いが鼻をくすぐった。
吐く息が白く浮かぶ。冬の静けさをまとった山あいの町には、どこか懐かしいような、時間がゆっくりと流れている気配があった。
駅前には手書きの観光マップがあり、赤い屋根の古い旅館や、小さな饅頭屋、木彫り細工の店などが並ぶ通りが描かれている。
そのすぐ先では、湯けむりを立てながら走る小川に、赤い橋がかかっていた。
「わ……雪、ほんのり積もってる」
由愛が小さく声を上げる。足元の石畳の隙間や軒下には、昨夜の雪がうっすらと残っていた。
冷たい空気に頬が染まり、由愛はマフラーをきゅっと巻き直す。
そのとき、彼女の手袋の上から、そっと陽翔の袖をちょんとつまんだ。
「歩こっか。あの足湯、行ってみたい」
陽翔が顔をこちらに向ける。目元がやわらかく緩んで、頷いた。
「うん、行こ」
ふたりはゆっくりと石畳の道を歩き出す。
観光客の笑い声や、湯気の立つ蒸し器の音、風に乗って流れる温泉饅頭の甘い香り――そんな町の喧騒を背に、ふたりだけの時間が静かに始まっていた。
手はつないでいない。でも、歩幅は自然と揃っていた。
由愛が少し前に出ると、陽翔も同じ速度で追いつき、横に並ぶ。
気づけば、肩がすこしだけ触れるほどの距離になっていた。
(あれ……こんなに近くにいるのに、全然、気まずくないんだ)
由愛はふと思う。すれ違っていた時期が嘘のように、今は隣にいるだけで安心できる。
陽翔の横顔をそっと見やると、彼もまた穏やかな表情で、目の前の景色を見つめていた。
小さなことが、愛しくなる。何でもない会話や、沈黙すら、心地いい。
並んで歩くこと。それが今のふたりにとって、何よりも大切な「確かさ」なのかもしれなかった。
木造の東屋の下にある足湯は、湯けむりが立ちのぼる中、観光客の声もどこか遠く、ふたりきりの世界のように静かだった。
湯に足を浸すと、じんわりと芯から温かさが広がっていく。寒さでこわばっていた足先が、ゆっくりとほどけていくのがわかった。
由愛は湯面を見つめながら、ふいに顔を上げる。
冬の午後は早く、空はすでに淡い灰色に染まり始めていた。雪が降るにはまだ少し時間がありそうだが、空気には確かな冷たさと、降りそうな気配が混じっている。
肩を寄せ合いながら、ふたりは並んで座っていた。
ほんの少しだけ熱めの湯が、頬をほてらせる。けれどその熱よりも、隣にいる人の存在が、不思議なほど心をあたためていた。
ふと、由愛がぽつりと呟いた。
「……ねえ。もし、陽翔が別の大学行ってたら、今みたいにいられなかったかな」
言ったあと、すぐに後悔したように小さく俯く。
でもそれは、ふたりの歩いてきた時間があったからこそ、生まれた問いだった。
陽翔は少し黙ったあと、視線を遠くの湯けむりへ向けたまま答えた。
「んー、わかんない。でも……俺、同じとこ目指してよかったって、今は心から思ってる」
その声は静かで、真っ直ぐだった。
無理に飾った言葉ではなく、陽翔の中から自然にこぼれた本音。その素朴な重みが、由愛の胸の奥にすっと染み込んでいく。
由愛は、伏せていた目を少し上げて、湯気の向こうに見える彼の横顔を見つめた。
輪郭は柔らかく、吐く息が白く消えていく様子が、どこか幻想的で――少しだけ切なかった。
「……わたしも、そう思うよ」
言葉にするまで、少し時間がかかった。けれどそのぶん、その一言にはたしかな思いが宿っていた。
迷って、悩んで、すれ違って――それでも今、こうして隣にいる。
あのとき、選んだ道が間違っていなかったと、心から思えるからこそ、今のぬくもりが尊く感じられた。
由愛は足を揃え直し、小さく肩を寄せた。
言葉はもういらなかった。ただ、こうして隣にいること。それだけで、心がじんわりと満たされていくようだった。
日が傾きはじめた頃、ふたりは温泉宿に併設された小さなカフェにいた。
木のぬくもりが感じられる店内は、ほのかに甘い匂いと湯気で満たされ、冷えた体と心をそっと包み込んでくれるようだった。
大きな窓のそば、窓際の席に並んで座り、テーブルの上には湯気の立つココアと、小さくて丸い手作りのチーズケーキ。
ココアの表面には小さなハート型のラテアートが描かれていて、由愛がそれを見つけて小さく笑う。
「……かわいい」
そう呟いた声は、どこかほっとしているようでもあり、ちょっぴり照れているようでもあった。
窓の外では、古い旅館の看板が一つ、また一つと灯りはじめていた。
夕暮れの薄明かりのなかで、その灯りはまるで誰かの帰りを待つように、やさしく道を照らしていた。
「……将来のこと、ちゃんと話せる時間、またつくろうね」
ケーキをひと口食べた後、由愛がふと切り出した。
その声は静かで、でも芯のある響きを持っていた。
まるで自分の中にある不安と希望を、ゆっくり言葉に乗せて差し出すように。
陽翔は少し驚いたように由愛の横顔を見たが、すぐに柔らかく微笑んで、短く「うん」と頷いた。
未来は、まだぼんやりとしている。
教育の道を進むという目標は同じでも、具体的な夢や場所、それをどう叶えていくかは、まだ手探りのままだ。
だけど、こうして隣で、同じカップの湯気を見つめながら、同じ時間の流れを感じていられること――
そのことが、なにより確かで、幸せだと思えた。
やがて、帰りの列車がホームに滑り込む音が聞こえ、ふたりはカフェを後にした。
車窓に映るのは、すっかり夜の顔に変わった温泉街。
灯りが川面に揺れ、湯気の残る路地が、静かに彼らを見送っているようだった。
列車のシートに並んで座り、由愛は陽翔の肩にもたれるように身体を預けた。
陽翔は小さく驚きながらも、何も言わず、そっとその肩を受け止めた。
言葉もなく、ただ寄り添うように目を閉じる。
揺れる車内、時折響く線路の音が心地よいリズムになって、ふたりの静けさを包み込んでいく。
その沈黙が、なにより確かな絆を感じさせていた。




