青嶺大学編・第58話 文芸サークル「ことのは文庫」冬号発行と発表会
青嶺大学編・第58話 文芸サークル「ことのは文庫」冬号発行と発表会
冬の柔らかな陽が、校舎の窓から静かに差し込んでいた。
風は冷たいが、キャンパスの空気にはどこか澄んだ緊張感が漂っている。今日は、文芸サークル「ことのは文庫」の冬号発表会当日。サークル室のある棟の一角には、印刷されたばかりの小冊子が積まれ、表紙には雪のように白い余白と、紺色の筆致で描かれた「冬のことばたち」というタイトルが浮かんでいた。
由愛は、小さく深呼吸をしてから、その冊子の一冊を手に取った。
ページをめくる指先が、ほんの少し震えていた。それは寒さのせいだけではない。
(やっぱり…載ってる)
陽翔の新作。
文芸サークルで初めて「恋」を真正面から描いた物語。
登場人物の名前は出てこない。けれど――
「それが、わたしの名前じゃないってわかってても。あの光を、あの涙を、まるで知っているような気がした。」
その一文に、心がきゅっとつかまれる。
「由愛、来てくれてたんだ」
後ろからふわりと声がした。振り返ると、陽翔が黒いコートの裾を揺らしながら、少し照れたように立っていた。
「うん。……読むって、約束してたから」
由愛は、冊子を胸に抱えながら、陽翔の目を見た。
その目には、以前よりもずっと澄んだ光が宿っているように見えた。
「今日の発表、緊張する?」
「ちょっとね。でも、楽しみでもある。……あの話を、ちゃんと“ことば”にできたから」
陽翔の視線が、展示コーナーの奥に向かう。そこには、朗読用に用意された椅子と、小さなステージ。サークルメンバーがそれぞれ自作の一節を読み上げるのだ。
「ねえ、陽翔」
由愛は、ほんの少しだけ陽翔の袖をつかんだ。人前で触れるのは、まだ少しだけ恥ずかしい。でも、その小さな勇気をこめて、そっと言う。
「すごく、よかったよ。あの物語。……わたし、ちょっと泣きそうになった」
陽翔の顔に、ゆっくりと微笑みが浮かぶ。言葉よりも先に、心が伝わる気がした。
「ありがとう。……読んでもらえて、よかった」
間もなく発表会が始まる時間。
他のメンバーが集まりはじめ、冊子を配ったり、準備に動き出していた。
「……由愛」
陽翔がそっと耳打ちするように言った。
「もしよかったら、次の春号……一緒に書いてみない?」
「えっ……?」
由愛の瞳が揺れる。
陽翔は、はにかむように、でもどこか真剣な目で続けた。
「話の中に、君の言葉がほしいんだ。……今の君だから、書ける言葉がある気がしてさ」
短い沈黙。けれどその間に、由愛の胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
「……うん。考えてみる」
その返事に、ふたりだけの春が、静かに芽吹き始めていた。
会場となった小さなホールは、あたたかな照明に包まれていた。
壁際には、歴代の冊子や作品の展示が並び、来場者たちはそれを一冊ずつ手に取りながら、しっとりとした雰囲気の中に身を置いていた。
壇上には、簡素なマイクと一脚の椅子。
その前に立つ陽翔の姿を、由愛は後方の席からじっと見つめていた。
(こんなふうに、人前で話す陽翔を見るのは久しぶり……)
高校のときは、文化祭のステージや合唱のリーダーをしていた彼。
だけど、大学に入ってからは、どこか控えめになった気がしていた。特にこの数ヶ月は。
けれど今、彼の背筋はまっすぐ伸び、目は正面をしっかりと見据えている。
「……こんばんは、文芸サークル“ことのは文庫”の藤崎陽翔です」
マイクを通して響く声は、少しだけ緊張を帯びていたが、どこか優しくて、静かな自信があった。
朗読が始まる。
――冬の街、雪の降りはじめた夜。
傘もささず歩く“彼女”に、少年が声をかける場面。
温度のない会話のはずなのに、言葉の奥から、淡い感情が滲み出す。
(これは、陽翔の……)
由愛の胸に、ふわりとあたたかいものが広がる。
それは、彼の内側にあった静かな痛みであり、ひとりで抱えていた想い。
でも今、それを言葉に変えて、誰かに届けようとしている。
ページをめくる指先、言葉のリズム、ほんの小さな間合いまでが、まるで“彼”そのもののようだった。
(……すごいよ、陽翔)
ただの恋の話じゃない。誰かを想うことの苦しさも、希望も、丁寧に編まれた物語。
そのすべてが、今の陽翔にしか書けない“ことば”だった。
朗読が終わると、小さな拍手が静かにホールを満たしていく。
照明がふわりと明るさを戻し、陽翔が軽く頭を下げて席へ戻ってくる。
そして、その視線がふと由愛と重なる。
彼は、ほんの少しだけ口元をほころばせた。
まるで、「届いた?」とでも聞くように。
由愛は静かにうなずいた。
言葉にはしなかったけれど、心の中で確かに答えていた。
(届いたよ。……ちゃんと、全部)
発表会が終わったホールには、まだ余韻のような空気が残っていた。
展示された冊子の前では、数人の参加者が感想を語り合い、談笑の声がぽつぽつと交わされている。けれど、そのざわめきもどこか抑えめで、朗読の余韻に浸るように柔らかかった。
由愛は、ホールの一角――控えめに置かれた椅子の列のすぐそばで、陽翔を待っていた。彼は今、発表会の運営メンバーたちと軽く打ち合わせを終えたところだった。
「おつかれさま」
由愛の声に、陽翔がふと目を上げる。
「あ、ありがとう。……聞いてくれてたんだね」
「うん。ちゃんと……最後まで」
そう言って微笑んだ彼女の声には、さっきまでの感動の余韻がまだほんのり残っていた。
照明が落ち着いたホールに、ふたりの影がそっと伸びて重なり合う。
「……あの話」
陽翔が、少しだけ恥ずかしそうに言葉を探す。
「フィクションだよ、もちろん。でも……気持ちは、嘘じゃない」
由愛は目を細めて頷いた。
「うん、そうだと思った。言葉の奥に、陽翔の気持ちが見えた。……ちゃんと届いたよ」
陽翔の目がわずかに揺れた。
誰かに自分の内側を見せることは、怖い。
でも今、由愛がそのすべてを受け止めてくれていることが、何よりも心をあたためていた。
「……ねえ、春号」
由愛が少し照れたように続けた。
「わたしも、出してみようかな。まだなにも決まってないけど。でも、陽翔と同じ場所で、ことばを並べたいって、思った」
陽翔は驚いたように瞬きをして、それからゆっくりと笑った。
「それ、すごく嬉しい」
ふたりの視線が重なる。そこには、もう不安もすれ違いもなかった。
ホールの外では、冬の夜がすっかり深まっていた。
けれど、その空気の冷たささえ、今はふたりの心を冷やすことはなかった。
――ふたりで一歩ずつ、また春へ向かって歩き出していく。
そんな確かな始まりの気配が、静かに灯っていた。




