青嶺大学編・第57話 ふたりで朝食
青嶺大学編・第57話 ふたりで朝食
由愛の部屋にある小さなキッチンから、バターが焼ける香ばしい音と匂いが立ちのぼる。
ホットケーキの生地が、じゅうっと鉄板に落ちて、ほんのりと色づいていく。
「陽翔、焼くのは任せたからね。私はフルーツ切る係」
「りんごの皮、あんまり薄くむかなくていいからな。昨日のケーキのとき、ギリギリすぎて緊張したし」
「ふふ、それは陽翔の手元を見てるのが楽しかったから。……でも、今回はちゃんとやるよ?」
由愛の声は、どこかくすぐったそうで、それでいて穏やかだった。
あたたかな朝の光が、彼女の頬をやさしく照らしている。その横顔を、陽翔はふと見つめた。
(……こうして、一緒に過ごす朝って、なんてことないのに、すごく特別だ)
昨夜、肩を寄せて座っていた時間。
「好きだよ」と言葉に出す代わりに、そっと唇を重ねたあの感触が、まだ唇に残っている。
「……焼けてきたぞ。由愛、皿取ってくれる?」
「あっ、うん!」
慌てて動いた由愛が、うっかり手元のフォークを落としてしまう。
カランと響いた音に、ふたりは顔を見合わせ、くすりと笑った。
「なんかさ、こういうのも、悪くないね」
「うん……悪くない。というか、ずっとこうしてたいかも」
ふたりの間に流れる空気が、ゆっくりとほどけていく。
窓の外では、冬の街が少しずつ動き出していた。街路樹のイルミネーションはもう消えていたけれど、由愛の部屋の中には、朝の光と笑い声が満ちていた。
焼きたてのホットケーキの上に、メープルシロップがとろりと垂れた。
何でもない朝。けれど、ふたりにとっては、何よりの贈り物のような時間だった。
陽翔が最後の一切れのホットケーキを口に運ぶと、由愛がカップに温かい紅茶を注いでくれた。ほのかに香るアールグレイの香りが、部屋の中にゆるやかに広がる。
「……なんか、いつもこうしていたいね」
由愛がふとつぶやいた。カップを両手で包み込むように持ったまま、窓の外の冬空に視線をやる。雲の切れ間から、柔らかい朝の陽が差し込んでいた。
陽翔はテーブル越しに、彼女のその横顔を見つめた。少しだけ寝癖の残る髪、白いニットの袖口からのぞく細い手首、そのすべてが、やけに愛おしかった。
「……俺も。なんか、このまま時が止まってくれたらいいのに、って思ってる」
「……それって、けっこう本気?」
「うん。マジで」
言ってから、陽翔は少し照れくさそうに笑った。
でもその表情には、ふざけた軽さではなく、真っすぐな気持ちがにじんでいた。
由愛は静かにうなずいて、紅茶をひと口飲むと、そっとテーブルの上に置いた。
「私ね、昨日も今朝も……ずっと、嬉しかった。陽翔がいてくれて。隣にいてくれるって、こんなに心強いんだなって、あらためて思ったの」
言葉を選ぶように、由愛は少し間を置いてから、続けた。
「だから……ううん、だからじゃなくて、これからも。ちゃんと、私も陽翔を支えられる人になりたいって思った。遠慮じゃなくて、対等でいられるように」
陽翔は何も言わず、テーブルの上に置かれた彼女の手に、自分の手を重ねた。
その温もりに、由愛はゆっくりと目を閉じた。
ふたりのあいだには、言葉では言い尽くせない時間が流れていた。
そして、その静かな時間の中で、カーテンの隙間から差し込む光が、テーブルの上の空の皿を照らしていた。
それは、特別な朝の終わりと、新しい日常のはじまりを告げるようだった。




