青嶺大学編・第56話 初めての朝
青嶺大学編・第56話 初めての朝
――朝。冬の光はやわらかく、カーテンの隙間から差し込む日差しが、部屋の空気を少しずつ温めていた。
由愛が目を覚ましたとき、外はまだ白く霞んでいて、街のざわめきも遠く感じられた。隣にある確かなぬくもりに、彼女はそっと目を向ける。
陽翔は、まだ眠っていた。
寝息は静かで、胸がゆっくりと上下している。その寝顔を見つめながら、由愛は心の奥に染みわたるような幸福感を味わっていた。
(……ほんとに、いるんだね。……夢じゃ、ないんだよね)
昨夜のことが、頭の中にゆっくりと蘇る。
聖夜の帰り道、手をつないで歩いたあの時間。部屋に灯したキャンドル。少し不器用なケーキのやりとり。触れた指先。ふたりの間にあった見えない壁が、少しずつ溶けていったような気がした。そして、互いの想いをそっと確かめ合うように過ごした、静かな夜。
そっと、シーツの中から手を出し、陽翔の髪に触れようとして――やめた。
(寝てる時くらい、ゆっくりしてていいよね)
ふふ、と小さく笑って、由愛はベッドからそっと起き上がった。
床に足をつけたとき、フローリングの冷たさが足の裏に伝わった。それでも、心の中は不思議とあたたかかった。
キッチンへ向かいながら、由愛は髪をひとつに結い、棚からカップをふたつ取り出す。
(今日は、ちゃんと“ふたりの朝”を始めたい)
コーヒーの粉をスプーンですくいながら、湯気の立ち上るイメージを思い浮かべる。
「おはよう」
声がして、振り向くと、陽翔が少し眠たそうに立っていた。くしゃくしゃの髪に、少し首元のゆるんだTシャツ。寝ぼけた顔が、なんだか少しだけ子どもみたいで、由愛はふっと笑った。
「おはよう。起こしちゃった?」
「ううん。……なんか、由愛の気配で起きた気がする」
「ふふ、それって変な表現」
「でも、ほんとに。……あったかかったからかな」
陽翔はそう言って、キッチンに近づくと、由愛の肩越しにカップを覗き込んだ。
「コーヒー?」
「うん。ブラックでも飲める?」
「飲めるけど……由愛が淹れるなら、なんでも美味しいよ」
不意の言葉に、由愛の手元がほんの少しだけ止まった。
(……やっぱり、好き)
ふたりで過ごす朝。何気ない会話と、交わす視線。そのひとつひとつが、壊れそうで、でも確かに繋がっていた。
カップに注がれたコーヒーの香りが部屋に広がる頃――
ふたりの距離は、もうどこにも迷いのない近さへと変わっていた。
由愛は、ふたり分のカップをトレイに載せ、小さなテーブルの上にそっと置いた。湯気の立ち上るカップの間に流れる沈黙は、心地よく、言葉よりも深く互いを包んでいた。
「寒くない?」
そう言いながら、陽翔はソファに腰を下ろし、ひざに掛けられたブランケットを半分に折って、隣に座った由愛の足元にもかけてくれた。
その何気ない仕草に、由愛の胸が少しだけきゅっと締めつけられる。
(……こういうところ、ずるいな)
いつもと変わらない優しさ。けれどそれが、今朝はいつもよりもまっすぐに心に届いてくる。
「……なんか、不思議だね」
「ん?」
「こうしてるの。ふたりで。朝から」
言いながら、由愛はマグカップを手に取って、ひと口すすった。ちょっと濃いめに淹れたつもりのコーヒーは、唇にほろ苦さを残しながら、胸の奥をじんわり温めてくれた。
陽翔もまた、自分のカップを持ち上げ、あたたかさに目を細めた。
「……昨日、ここに誘ってくれてありがとう」
「……え?」
「すごく、うれしかった。たぶん……今までで、一番安心できた夜だった」
その言葉に、由愛の喉が少しだけつまる。
(ほんとは私のほうが、救われたんだよ)
それでも、すぐには言えなくて。代わりに、そっと陽翔の手に自分の手を重ねた。
ふたりの指が、遠慮がちに、でも確かに絡む。
窓の外では、雪になりそうな薄雲が空を覆いはじめていた。だけど、部屋の中はふたりだけの呼吸と、静かなぬくもりに満ちている。
「ねえ、陽翔」
「ん?」
「……私ね、もっとちゃんと、あなたのこと見ていたい」
その小さな声に、陽翔がゆっくりと振り向いた。目と目が合い、次の瞬間、言葉よりも自然に、ふたりの距離がそっと近づいた。
カップの中の湯気がゆらりと揺れて、その向こうで重なった影が、朝の光の中で淡く滲んでいった。
――静かな、けれど確かな再スタートの朝だった。