青嶺大学編・第55話 クリスマスの気持ち
青嶺大学編・第55話 クリスマスの気持ち
ふたり並んで歩く道すがら、街はすっかりクリスマスの装いに染まっていた。
店先のガラスには雪の結晶のステッカーが貼られ、ウィンドウ越しには赤と緑の装飾が踊っている。通りにはカップルの笑い声、子どもたちのはしゃぎ声。すれ違う人たちの手には、プレゼントの紙袋や温かいココアのカップ。
由愛と陽翔は、そんな冬のにぎわいを少し離れた道を静かに歩いていた。
「……なんか、不思議だね。こうやってまた、一緒に歩いてるのがさ」
ぽつりと由愛がつぶやいた声は、冷たい空気にすっと溶けていった。
「うん。でも、不思議じゃなくしたい。これが、いつものふたりになるように」
陽翔の声は変わらず優しくて、その言葉の温度が、由愛の胸にそっと灯る。
彼の手を握ることはまだできなかった。でも、その距離は、もう確かに縮まっていた。
やがて、由愛の下宿先のマンションにたどり着く。築年数は少し経っているけれど、玄関前には小さなリースが飾られ、彼女のささやかな温かさが垣間見えた。
玄関の鍵を開けると、ふわりと香るのは、彼女の部屋に染みついた柔らかな柔軟剤の香り。明るすぎない電球色の明かりが、ふたりを優しく迎える。
「……どうぞ」
「おじゃまします」
靴を脱ぎ、少しだけ遠慮がちな陽翔の背中を、由愛はそっと見つめる。
(これが、私の空間に陽翔がいるって、すごく不思議。だけど……あったかい)
部屋の隅には、小さなツリーと、手作りのリース。窓辺には彼女が折った紙の雪の結晶が飾られていた。
「飾り、かわいいね。由愛らしい」
「えへへ……ありがと。ひとりだとちょっと寂しいかなって思って。だから……」
由愛の声がだんだんと小さくなる。けれど、その続きを陽翔が引き取るように言った。
「じゃあ、今日は寂しくない夜にしよう」
一瞬、目が合って、ふたりは静かに微笑み合った。
ソファに並んで座り、由愛が温め直したシチューとバゲットをテーブルに並べる。いつもの簡単な料理なのに、ふたりで食べるだけで、何倍も美味しく感じる。
会話は少なくても、時間が丁寧に流れていく。
食事が終わる頃には、部屋の灯りは少しだけ暗くなり、テーブルのキャンドルに火がともされていた。
由愛は陽翔のカップにあたたかいミルクティーを注ぎながら、そっとつぶやいた。
「……今年、いろんなことあったけど、いちばん嬉しいのは、こうして陽翔とこの夜を過ごせてること、かも」
陽翔は何も言わず、カップを手に取って微笑んだ。
その笑顔が、なによりの返事だった。
外ではまだクリスマスソングが遠くで流れ、窓の外のイルミネーションは静かにきらめいていた。
ミルクティーの湯気が立ちのぼるテーブルの上。カップを両手で包むように持ちながら、由愛は時折、陽翔の横顔を盗み見る。
柔らかな照明の下で、彼のまつ毛が影を落としている。唇が少しだけ開いて、なにか言いたげに閉じられた。
その沈黙が、今は心地よかった。
窓の外では、粉雪のような小雨がちらつきはじめていた。イルミネーションがにじんで、まるで世界そのものがフィルターをかけたように、優しくぼやけている。
「……ねえ、陽翔」
由愛の声は、さっきよりも少しだけ勇気を帯びていた。
「うん?」
「……泊まっていって、ほしいな」
言い終えた瞬間、胸の奥がきゅっと締まるような感覚。けれど、陽翔の返事を待つその一瞬が、どこか安心にも似ていた。
陽翔は、驚いたように彼女を見た。でもすぐに、微笑んで――
「……いいの?」
「うん。だって……今日は特別な日だし」
言葉にしきれない思いが、表情ににじんでいた。陽翔はそっと手を伸ばして、由愛の指先に触れる。
その一瞬、部屋の空気がふわっと変わったような気がした。
指先から、体の奥にじんわりと熱が伝わっていく。けれどそれは決して焦りや高揚ではなく、あたたかさと安堵の混ざった、柔らかなぬくもりだった。
由愛は立ち上がり、小さく深呼吸をして、ふと口元に笑みを浮かべる。
「……じゃあ、ちょっと片づけてくるね」
「うん、手伝うよ」
「いいよ。今日は、ゆっくりしてて」
キッチンで洗い物をしながら、由愛の頬にはほんのり紅が差していた。ガラス越しの自分の姿を見て、小さく苦笑する。
(……こんな自分、久しぶりかも)
心の奥に眠っていた少女のような気持ち――それが、今夜だけはそっと顔をのぞかせていた。
リビングに戻ると、陽翔は静かにブランケットを膝にかけて座っていた。
「ベッド、……使っていいよ。私はこっちで寝るから」
そう言った由愛の言葉に、陽翔は小さく首を横に振った。
「一緒に、寝たい」
その一言が、ふたりの間の空気を、ほんの少し震わせた。
由愛は、ほんの一拍の間を置いてから、うなずいた。
そして、ふたりでベッドに入った夜――
肩が触れ合いそうな距離で、お互いの気配を感じながら、小さな声でいくつかの言葉を交わす。
「……寒くない?」
「ううん、陽翔がいるから、あったかい」
静かな灯りが落とされて、ふたりの世界は、まるで雪の中にいるようにしんと静まっていく。
――やがて、呼吸が落ち着き、鼓動がそろい、眠りへと誘われる。
それは、誰にも見せたことのない素顔を見せ合うような、やさしくて、とても静かな夜だった。
そして翌朝、初めて迎えるふたりの朝が、ゆっくりと、やわらかに近づいていた。