青嶺大学編・第44話 特別号の原稿 3
青嶺大学編・第44話 特別号の原稿 3
木陰にそよぐ風が、夏の名残を運んでくる。
昼休み前の中庭はまだ人影もまばらで、空の広さと静けさだけがゆるやかに時間を満たしていた。
由愛は、芝生の端に立ち尽くしていた。
カバンの中には、折りたたんだままの原稿コピー。朝から何度も開いては閉じて、そのたびに胸がざわめく。
(ちゃんと、話したい)
陽翔と、もっと言葉を交わしたいと思った。
励ましたいとか、支えたいとか、そういう綺麗な言葉じゃなくて。
ただ――彼の“今”に、自分の気持ちを重ねて伝えたい。
だけど、それは思っている以上に怖いことだった。
声をかけるタイミング、言葉の選び方、彼の反応――考えれば考えるほど、足がすくむ。
でも、今日はちゃんと伝えよう。そう、朝から決めていた。
(放課後、文芸サークルに行こう。そこで……)
由愛は深呼吸して、小さく頷いた。
空を見上げると、光がやわらかく葉の隙間から差し込んでいた。
午後の陽が差し込む古びた部室に、久住彩音は静かに原稿を並べていた。
机の上には、今月の特別号に載せる原稿が綴じられ、あと数名の編集チェックを待っていた。
「……この原稿、反響ありそうだね」
彩音の声に、部室の隅で本を読んでいた柚木理紗が頷いた。
「うん。読んで、思わず手が止まった。
綺麗な文章じゃない。でも、すごく、真っすぐで――息が詰まるくらいだった」
「匿名のまま出すの? 名前、載せるよう勧めてみたら?」
「本人がそれを選んだなら、それでいいと思う。
むしろ、“名前がないからこそ届く気持ち”もあると思うから」
彩音は、ふっと微笑んだ。
そしてページの余白にそっと鉛筆で書き込んだ。
「何かに迷うことは、誰かに勇気を与える力にもなる。」
「……それ、誰かへの返事?」
理紗の問いに、彩音は軽く笑った。
「ある意味ね。たぶん、本人も気づいてないけど、あの原稿、ちゃんと誰かに届いてると思うよ」
そのとき、部室のドアが小さくノックされた。
「……失礼します」
顔を覗かせたのは、由愛だった。
ぎこちなく扉の隙間から覗いた彼女を見て、理紗が柔らかく笑った。
「こんにちは、橘さん。何か用事?」
「……あの、少しだけ、読ませてもらった原稿のことで」
彩音が手元の原稿を指差した。
「これ、だよね?」
由愛はそっと頷く。
「これを書いた人と……今日、話がしたいんです。私、ちゃんと、伝えたいことがあって」
理紗と彩音は顔を見合わせ、小さく頷いた。
「彼、たぶん、もうすぐ来るよ。……文芸サークルに顔を出してみようかなって、言ってたから」
由愛の心臓が、どくんと跳ねた。
数分後
陽翔は、廊下の端から部室の扉を見つめていた。
入るべきかどうか、迷っていた。原稿は提出したものの、それを読んだ人たちにどう思われたか、考えるだけで心がざわついた。
そのとき――扉がふわりと開いた。
「……陽翔くん」
驚いたように顔を上げると、そこには由愛が立っていた。
「……由愛?」
言葉がうまく出てこない陽翔に、由愛は小さく笑って言った。
「話、しよう? ちょっとだけでいいから」
そう言って、やわらかく手を差し出した。
陽翔は、その手を見つめた。
迷いと不安と、でもどこかで信じたかった“誰かに届く”という気持ち。
そのすべてが、今この瞬間に繋がっていた。
キャンパスの片隅、部室棟の裏手にある木製のベンチ。
ここは、昼休みに人がほとんど通らない静かな場所で、陽翔と由愛は並んで座っていた。
目の前には低い生け垣と、その向こうに広がる芝生と空。
夕方の気配を少し含んだ風が、葉をそっと揺らしている。
しばらく、言葉はなかった。
陽翔は足元の影をじっと見つめ、由愛は両手を膝の上でぎゅっと組んでいた。
「……原稿、読んだよ」
由愛がそう言ったのは、風が少し止んだタイミングだった。
陽翔のまつげが、一瞬だけ揺れた。
「そっか……恥ずかしいな。なんか、あれ、勢いで書いたんだ。誰に見せるってわけでもなくて……でも、読まれたなら、まあ……」
「……伝わったよ。すごく、陽翔くんの気持ちが。読んでて、胸がぎゅってなった」
言い終えてから、由愛は一度だけ視線を落とした。
それでも、次の言葉はちゃんと彼に向けて言った。
「自分が子どもと向き合えなかったって、書いてたでしょ? 怖くなったって。でも……その“怖い”って思える気持ちが、すごく大事だと思う。私……羨ましかったもん」
「羨ましい……?」
「うん。ちゃんと、自分のダメなとこ、ちゃんと見つめてて。私は、たぶん――まだそこまでできてない。
“先生になりたい”って言いながら、ちゃんと子どもと向き合う怖さから目を逸らしてたかもしれない」
陽翔は、黙って彼女の横顔を見つめていた。
由愛の髪が、少し風に揺れていた。けれどその瞳は、真っ直ぐだった。
「私ね、嬉しかったんだ。陽翔くんが、ああやって言葉にしてくれて。
……うまく言えないけど、“諦めたくない”って気持ち、私にもあるから。たぶん、似てるなって思ったの」
陽翔の肩が、少しだけ緩んだ。
長い沈黙のあと、ぽつりと呟いた。
「俺……ずっと、自信がなかった。
でも、あの原稿、書いてよかったかも。由愛に読んでもらえて……ちょっとだけ、救われた気がする」
「……なら、書いてくれてありがとう」
由愛が、そっと笑った。
その笑顔はいつもより少しだけ照れていて、でも陽翔の胸の奥に、じんわりとあたたかい灯をともした。




