青嶺大学編・第43話 特別号の原稿 2
青嶺大学編・第43話 特別号の原稿 2
数日後、午後の柔らかな陽射しが、古びた木製の机に斜めに落ちていた。
文芸サークルの部室には、まだほんのり夏の熱が残っている。窓を開け放った隙間から、学内放送の音と、かすかに蝉の声が混ざって流れ込んでいた。
柚木理紗は、手にしていたプリントの束から一枚を抜き取ると、静かに読みはじめた。
それは、サークルのSlackに上がっていた「原稿3本不足」の中で、ぽつんと追加されていた無題の作品――陽翔が提出したものだった。
文中に、書き手の名前はなかった。
けれど理紗には、すぐにわかった。
この文章には、言葉を選びすぎて言葉を失いそうな人の“体温”がある。
不器用で、それでも誠実で、言葉にすることにおそろしく慎重で――まるで、自分の影をなぞるように紡がれた言葉たち。
「子どもたちに届かないとき、逃げたくなった。けれど、本当は、自分がいちばん届いてほしかったのかもしれない。
誰かに、『大丈夫だよ』って、言ってほしかったんだ」
読み進めるうち、理紗の指先がそっと紙を撫でた。
窓の外の光がわずかに陰り、室内がやわらかく沈む。
「それでも、もう一度やってみたいと思った。
たとえば、それが間違いだったとしても、子どもたちにとって“誰かが諦めなかった”という経験が、どこかで灯りになるなら――
今の俺は、それで充分だと思う」
読み終えたあと、理紗は小さく、深く息を吸った。
(……やっぱり、あのとき、すごく悩んでたんだ)
数日前、陽翔が一人で教育棟の掲示板を見上げていた姿を思い出す。
あの背中は、誰にも頼らず、自分で自分を支えようとしていた。
無理して笑わなかった分だけ、言葉がこんなにまっすぐで、痛いほどに本音だった。
彼が書いた文章には、答えはなかった。
けれど、答えを求める気配だけが、確かに息づいていた。
その夕方。由愛は図書館の奥まった閲覧席で、1枚のプリントを胸元に抱えていた。
それは、理紗から「読んでみて」とそっと渡されたコピー。
タイトルはなかった。ただ、最後の段落の余白に、小さく「文芸サークル・臨時号より」とだけ記されていた。
陽翔の名前はなかった。
けれど、由愛には、読み始めてすぐにわかった。
(……陽翔くん、書いたんだ)
胸の奥が、急にぎゅっと締めつけられる。
(苦しかったんだよね……あのとき)
合宿で、子どもとの距離に戸惑っていた陽翔。
帰りのバスで「ちょっと休む」と言って背もたれに身を預けた姿。
その背中が、ひどく遠くに見えて、不安でたまらなかった。
文章は、まるでそのときの心の声だった。
陽翔がどんなに自分の足元を疑っていたか、どれほど情けなさに飲み込まれそうになっていたか――
そして、それでも“諦めたくない”と思ったことが、たしかにそこに刻まれていた。
「子どもたちの表情に、言葉が追いつかなかった。
でも、それでも一緒にいたいって、思った」
静かに目を伏せる。手が、ほんの少し震えていた。
(……私、陽翔くんの気持ち、ちゃんと見てなかったのかもしれない)
応援するばかりで、気づいたふりをして、肝心な想いには触れられなかった。
だけど今、こうして文字になった彼の気持ちが、真っ直ぐ胸に届いて――涙が、こぼれそうになった。
(……ありがとう)
その言葉は、まだ彼には届かない。
けれど、由愛は心の中でそっと呟いた。
プリントをそっと抱きしめながら、彼女は静かに席を立った。
廊下の窓から見えた空には、秋の気配がゆっくりと差し始めていた。




