青嶺大学編・第41話 すれ違いの余韻
青嶺大学編・第41話 すれ違いの余韻
蝉の声が、ほんの少しだけ遠のいたような気がした。
学園通りの夏祭りから数日。夜になっても蒸し暑かった空気は、日ごとにわずかずつやわらぎ始めていた。
青嶺大学のキャンパスには、秋学期の準備に戻ってきた学生たちの姿がちらほらと戻り始めている。
陽翔も、久しぶりに由愛と並んで歩いていた。けれど、それは以前のような「自然な並び方」ではなかった。
「……あのときさ、花火、綺麗だったね」
由愛がそう切り出したのは、駅へ向かう坂道の途中だった。
「うん。……すげぇ人混みだったけど、いい祭りだった」
陽翔は、少し間を置いて応じた。けれどその言葉の奥には、伝えきれなかった感情が沈んでいる。
本当は――
自分があの場で、由愛の隣にいなかった時間が、長く感じられていた。
佐倉と笑い合っていた由愛の姿を、目の端で追いながら、胸の奥に釘が打たれていくようだった。
「陽翔くんって、最近あんまり……話してくれないよね」
ぽつりと、由愛が言った。
「……そうかもな」
陽翔は空を見上げた。もう夏の色ではない、薄くなりかけた夕焼けが広がっていた。
伝えたい気持ちは、たくさんある。
けれど、どこから話せばいいのかもわからなくなっていた。教育実習で失敗したこと、焦りや不安、由愛と佐倉との距離が怖いと思ってしまったこと――
「なんか……ごめんね」
由愛の声は、風に消えそうなほど小さかった。
陽翔は顔を横に向け、由愛の表情を見つめた。
少しだけ目を伏せたままの彼女。その肩にかかる髪が、夏の夜の名残をゆらす。
「謝らなくていい。由愛が悪いんじゃない」
そう言いながらも、陽翔の中には、解けないもやが残っていた。
――なぜだろう。
手を伸ばせば届く距離なのに、指先が触れない気がする。
言葉にすれば崩れてしまうような、不安定な繋がり。
ふたりはそのまま駅まで歩いた。
手を繋ぐことも、声を掛け合うこともなく。
それでも、別れ際に小さく交わした「じゃあ、またね」が、せめてもの救いだった。
お九月初旬、長かった夏休みが終わり、青嶺大学のキャンパスには再び活気が戻りつつあった。
木々の葉はまだ青いままだが、吹き抜ける風は明らかに、夏とは違う匂いを含んでいた。
陽翔はその日、学部棟の掲示板前に立っていた。
前期の成績発表。
紙に印刷された受講者一覧の中から、自分の学籍番号を探し出し、視線を走らせていく。
「……やっぱ、ギリギリか」
特に、教職課程の必修科目。
実習の補助に参加したにもかかわらず、レポートの評価は中の下。プレゼンでは指摘も多く、思ったより成績が伸びなかった。
何よりも――由愛は、すべての教科で安定したA評価だった。
差をつけられたことに、嫉妬というより、自分への情けなさが込み上げる。
「お前……このままで、同じ夢に辿り着けんのかよ」
独り言のようにつぶやいたその声が、誰にも届かないことに少し安堵する。
キャンパスのカフェテリアでは、進路相談週間の真っ只中。
将来の目標や志望先を記入した紙を持った学生たちが、指導教員との面談を待っていた。
陽翔も例に漏れず、資料を片手に順番を待っていたが、心ここにあらずだった。
「進路……教育学部って、簡単じゃないよな」
隣の席では、同じく教育課程を目指す学生たちが、成績や教職実習の不安について話していた。
佐倉の名前も、どこかで耳に入ってくる。心理系の進路で評価されてるらしい。由愛も、その話を聞いていたのかもしれない。
ふと、視線の先――別のテーブルで、由愛が学科の友人と資料を見ながら笑っているのが見えた。
目が合わなかった。
いや、合わなかったふりをされたのかもしれない。
胸の奥に、鈍く冷たい感情がじわりと広がる。
――どうして、こうなったんだろう。
二人で過ごしてきた時間に嘘はない。だけど、今のふたりの間には、小さな沈黙が増えた。
相談したいことも、聞きたいこともあるのに、それがうまく言葉にならない。
そんな陽翔の元に、文芸サークルの仲間である柚木理紗がひょっこりと現れた。
「陽翔くん、短編文学賞、出すんでしょ? もう構想できてる?」
「……ああ、まぁ。ぼちぼち、な」
陽翔は、言葉を濁しながらも、理紗の気さくな声に少しだけ救われた気がした。
彼女は余計な詮索もせず、ただ同じ目線で話しかけてくれる。その距離感が、今の陽翔には心地よかった。
「じゃ、サークル室戻ったら草稿見せて。夏の特別号の編集、手伝うし」
理紗の明るい声が、風に混ざって消えていく。
振り返った先に、由愛の姿はもうなかった。
――秋が始まる。
ふたりがすれ違ったまま、次の季節に足を踏み入れようとしていた。




