青嶺大学編・第40話 言えなかったこと、言わなければならなかったこと
青嶺大学編・第40話 言えなかったこと、言わなければならなかったこと
夜の帳が下りていた。
提灯の灯りが静かに揺れ、終わりかけた夏の名残を照らしていた。屋台の喧騒もまばらになり、人の波が少しずつ引いていく。
文芸サークルの展示ブースも撤収作業が進み、会場の端では模擬店のスタッフたちがアイスキャンディーを頬張って笑い合っている。
陽翔は、何も手につかないまま、テントの隅にしゃがみ込んでいた。
片手には片付け忘れた小冊子。けれど視線は、その先にいる二人──由愛と佐倉を見つめていた。
二人は並んで、展示用のイーゼルを片付けていた。
言葉は交わさずとも、自然な距離感で、流れるように動くその姿が、陽翔にはどうしても眩しく見えた。
──“自分よりも、ちゃんと隣にいられる人”。
そんなふうに、思ってしまった。
そのときだった。
「……陽翔くん」
ふいに、由愛がこちらに歩み寄ってきた。
浴衣の裾が風に揺れ、彼女の頬が、提灯の赤い光で染まっていた。
「少し……話せる?」
陽翔は黙って頷く。
人の少ない公園のベンチへと歩き、並んで座った。耳元で、祭りの終わりを告げるように風鈴が微かに鳴っていた。
「……さっきは、ごめんね。忙しくて、ちゃんと話せなくて」
「……いや、こっちこそ」
短い言葉が行き交う。
けれど、その沈黙の重さが、ふたりの心の距離を物語っていた。
陽翔は、意を決して口を開いた。
「最近さ……なんか、由愛が遠くに感じるんだ」
由愛は驚いたように目を瞬いた。
けれど否定も肯定もせず、ただ静かに陽翔の言葉を待っていた。
「佐倉といるときの由愛、すごく自然でさ。……俺といるときより、楽しそうに見えた」
「……そんなつもりじゃ……」
「わかってる。でも、わかってても……ずっと胸がざわざわしてた。話したいのに、話せなくて……どうでもいいことばっかり口にして、気づけば避けてたの、俺の方だったかもしれない」
陽翔の声は、少し震えていた。
言いたかったことは山ほどあった。
教育実習で感じた無力感も、子どもキャンプに参加できなかった後悔も、由愛が自分の知らない場所で成長していくことへの焦りも。
でもそれらはすべて、「不安」という一言に集約されていた。
──由愛の“隣”に立てなくなるかもしれないという、不安。
「……陽翔くん」
由愛は静かに、でも真っすぐに陽翔を見つめた。
「私も、不安だったよ」
「……え?」
「佐倉くんと話してたのは、たしかに……相談しやすかったから。陽翔くんには言いにくいこともあって……でも、それって私が勝手に壁をつくってただけなんだよね」
「……壁、なんて」
「陽翔くんが、いつも“平気な顔”をするから。強く見えて、私が支えてもらうばかりでいいのかなって……。でも、本当は……ちゃんと支えたかった」
由愛の瞳が、潤んでいた。
陽翔はその目を見て、ようやく気づいた。
自分の中で膨れ上がっていたのは、嫉妬や怒りなんかじゃなく、“すれ違ってしまったこと”への哀しさだった。
「……由愛。俺、もっとちゃんと話すよ。弱いとこも、情けないとこも……隠さないようにする」
「うん。私も、話すね。自分の気持ち、逃げずに」
ふたりは、そっと手を取り合った。
指先がふるえていたけれど、その温もりはたしかに心に届いていた。
空には、遠く打ち上げ花火の光が一瞬だけ広がった。
それは、ふたりがもう一度“隣”に戻ってきたことを、そっと祝福するように夜空に咲いていた。




