青嶺大学編・第38話 重なる声と、交わらない想い
青嶺大学編・第38話 重なる声と、交わらない想い
八月二十日前日。
青嶺短編文学賞の応募締切が、いよいよ明日に迫っていた。
文芸サークルの部室には、最後の追い込みに臨むメンバーたちの気配が満ちていた。扇風機の風が唸る中、窓の外には真夏の夕焼けが広がり、茜色に染まった空が静かに時間の流れを告げていた。
陽翔は、膝に置いたノートPCを見つめていた。指先はキーボードの上に乗せたまま、もうしばらく動いていない。
書き上げたばかりの短編には、実習中の子どもとのすれ違い、自分の未熟さ、そしてそこから生まれたほんの少しの希望が綴られていた。
けれど、心の奥底には、自分の中の“何か”がまだ届いていないような、そんな感覚が残っていた。
「陽翔くん、その……もしよかったら、私に読ませてくれない?」
ふと声をかけてきたのは、部室に顔を出した由愛だった。今日の活動は自由参加で、彼女がこの場に来るのは久しぶりだった。
「え……あ、うん。いいけど……」
陽翔は、ちょっと戸惑いながらも原稿データをUSBに移し、彼女に渡す。由愛はお礼を言って、それをカバンにそっとしまった。
その場では何も言わずに、ただ笑って。
──けれど、その後。
由愛が帰る後ろ姿を、陽翔はぼんやりと見送っていた。
彼女は最近、何かを隠しているようだった。クローバーの活動が忙しいのは知っている。でも、それ以上の「距離」が、どこかにあるような気がしてならなかった。
その夜、由愛は寮の自室で静かに陽翔の作品を読み始めていた。
デスクの上には卓上ランプ。淡い光に照らされて、彼の紡いだ言葉がページに浮かび上がっていく。
《──できないことがあっても、逃げるんじゃなくて、そばにいたいと思ったんだ。少しだけでも、その子の笑顔の近くに──》
読み進めるうちに、胸の奥がふわりと揺れた。
彼がどんな気持ちで教育実習を終え、どんな思いで筆を取ったのかが、ゆっくりと、でも確かに伝わってくる。
(……陽翔くん、こんなふうに悩んでたんだ)
なのに──自分は、彼のその葛藤に気づかず、佐倉くんにばかり相談していた。
思い出すのは、キャンプの夜。
焚き火の前で、佐倉の真剣なまなざしに、自分が思わずうなずいてしまったあの瞬間。
(……どうして、あのとき私……)
ため息を吐いて、顔を伏せた。
机の隅に置いたスマホが震えたのは、そのときだった。
──着信:佐倉 悠真
由愛はしばらく画面を見つめてから、そっと電源を切った。
翌日。
文芸サークルは、締切日ということもあって珍しく満員に近い状態だった。
陽翔が原稿を提出した直後、ちょうど由愛が部室に顔を出した。
「あ、渡すね。昨日読んだよ、原稿……すごく、胸にきた」
「ほんと……? よかった……」
目を合わせたその瞬間、何か言いたそうな気配が互いの間に流れた。けれど、それを遮ったのは別の声だった。
「陽翔、おつかれ。これ、提出した?」
柚木理紗が、自然に陽翔の隣にやってきて笑った。
「うん。いま、ちょうど」
「そっか、よかった。昨日の修正、入れてくれてたら嬉しいなって思って」
「……もちろん。あの指摘、助かった」
理紗と陽翔が自然に言葉を交わす様子に、由愛の手がほんの少し、ファイルを持つ指先で強く握られる。
その一瞬の変化を、陽翔は見逃さなかった。
けれど、その気づきは──ほんの数秒遅かった。
視線を上げたときには、由愛はもう背を向けていた。
ふたりの心の間に、すこしずつ
透明な壁のようなものができ始めていた。




