青嶺大学編・第33話 言葉にできない距離
青嶺大学編・第33話 言葉にできない距離
——7月下旬、夏休みに入って間もない頃。
クローバー主催の「子どもキャンプ」が、郊外の自然体験施設で始まった。
林に囲まれたキャンプ場には、朝から子どもたちの元気な声が響いている。
テントの設営、虫取り、川遊び、夜には焚き火と星空観察。
スタッフとして同行した大学生たちも、汗だくになりながら、子どもたちの笑顔を追いかけていた。
陽翔と由愛もその一人だった。
「せんせー! 虫いたー! これなにー?」
草むらから飛び出してきた男の子が、小さな手で何かを差し出してきた。
陽翔はしゃがんで、子どもの目線まで降りる。
「おっ、それはカマキリの赤ちゃんだな。まだ小さいけど、カマの形、もうしっかりしてるな」
「ほんとだ! すげー!」
子どもが目を輝かせる。その様子に、陽翔の口元も自然とほころぶ。
だけど——その笑顔の奥に、微かな“戸惑い”があった。
(この感じ……実習のときと、ちょっと違う)
言葉がスムーズに出る。
子どもとのやり取りが、無理なく流れていく。
(たぶん、ここでは“先生”じゃなくて、“お兄さん”でいられるからだ)
教師として求められる「指導」や「観察」じゃない。
この場所では、ただ一緒にいて、遊んで、笑ってあげるだけで子どもたちは心を開いてくれる。
それが、うれしくて。
けれど、少しだけ、怖くもあった。
(それでいいのか? 本当に“教える立場”になったとき、俺は……)
そのとき、川辺で滑って尻もちをついた女の子の泣き声が響いた。
すぐに陽翔が駆け寄る。
「大丈夫、大丈夫。痛かったな」
手のひらに小石が刺さっている。優しく払って、ハンカチでそっと押さえる。
「深くはない。冷たい川でちょっとびっくりしただけだ。……ほら、あっちにきれいな石もあるぞ?」
泣き止んだ女の子が、指差す先をちらっと見て、こくんと頷く。
(今の俺には……こうして、ほんのちょっとだけ、心を支えることしかできない)
陽翔は立ち上がり、女の子の手をそっと引いた。
一方その頃、由愛は3人の子どもに囲まれていた。
日焼け止めの塗り直し、帽子を被せて、水筒の確認。忙しく動きながらも、言葉の一つ一つがやさしく、柔らかかった。
「◯◯くんはこっちの帽子が好きだよね。よし、準備ばっちり。じゃあ、川にいこっか」
「ゆめちゃん、だーいすき!」
子どもがぱっと腕を広げて抱きついてくる。
由愛は笑いながら受け止めた。
——夕方、キャンプ場の炊事棟。
カレーのいい香りが漂うなか、大学生たちは子どもたちと一緒に調理をしていた。
にんじんの皮をむく子、玉ねぎに涙を流す子、無邪気な笑顔があふれている。
「せんせー、陽翔せんせー、味見してみてー!」
「ん、うまい! 天才だな、これは!」
「でしょー!」
笑い声が弾ける。
でも、陽翔の胸の奥では、あの日の実習の記憶がまだ、静かに残っていた。
(子どもと向き合うのは、楽しい。でも、“責任”を背負った瞬間に、俺は足がすくんだ)
それでも——
「でも、逃げたくはないんだよな」
カレーをかき混ぜながら、ぽつりとつぶやく。
隣にいたスタッフの一人が、不思議そうに顔をのぞかせた。
「ん? なにが?」
「……いや、なんでもない」
陽翔は、笑って誤魔化した。
そしてまた、鍋の中でぐるぐるとルーを混ぜる。
その手つきは、少しだけ確かになっていた。
夜。焚き火を囲んでいた時、由愛は隣のスタッフに声をかけられる。
心理学部の女子学生だった。
「由愛ちゃんって、すごく子どもに慕われてるよね。保育士とか、臨床系とか向いてると思うなあ」
「……私、今は教育学部だけど……そういう仕事、いいなって最近思ってて」
「うんうん、全然アリだと思う。進路って、あとから変わることも多いしね」
その言葉が、由愛の胸の奥にしずかに残った。
火の粉が夜空に昇っていくのを見つめながら、心のどこかで、揺れていた。
翌朝。朝のミーティングの合間。
陽翔は、水場で顔を洗って戻る途中、焚き火跡の前に佇む由愛を見つけた。
「……昨日の子たち、すごくなついてたな」
「うん。なんだか……もっと、こういう仕事もあるんだって思った。
子どもと一緒に過ごして、心に寄り添う仕事」
「それって、教師として?」
「……ううん、先生じゃなくてもいいのかもって、思っちゃったの。
たとえば、保育士さんとか、カウンセラーとか」
陽翔は、返す言葉を一瞬探した。
(由愛は、変わろうとしてる。……でも、それは俺と違う方向かもしれない)
焚き火跡に残る白い灰を見つめながら、ふたりの間に、まだ言葉にできない距離が生まれた。
“好き”だけじゃ、未来は描けない。
けれど、だからこそ、ふたりの未来に向けた“選択”が、今、静かに始まっていた。