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あおはる  作者: 米糠
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青嶺大学編・第31話  教育実習と静かな葛藤 1

青嶺大学編・第31話  教育実習と静かな葛藤 1



 ——夏の陽射しがじりじりと照りつける、ある平日の午前。

 蝉の声が網戸越しにけたたましく響く中、青嶺大学の教育学部1年・藤崎陽翔は、市内の小学校で教育実習に臨んでいた。


 この日は、生活の授業で「夏の自然とふれあおう」というテーマの観察活動。

 教室ではなく校庭で、植物や虫を見つけながらノートに記録をするという時間だった。


「はい、それじゃあペアになって、図鑑と虫めがね持って、観察始めるよー」


 担当教諭の声と同時に、子どもたちは歓声を上げて駆け出していく。

 陽翔もその輪に入り、何人かの子たちと一緒に行動することになった。


「ねぇ先生、この虫なに?  なんか動いてる!」


 小さな女の子が手にした透明カップの中には、小さなバッタ。

 陽翔はしゃがみ込んで見つめた。だが、とっさに種類が思い出せない。


(えっと……トノサマバッタ、いや、それより小さい…オンブバッタか?)


 まごついているうちに、他の子が駆け寄ってきて、

「それオンブバッタだよー! お兄ちゃんの先生、知らないの?」と無邪気に笑った。


 陽翔はとっさに笑ってごまかしたが、胸の奥がずくんと痛んだ。

(……わかってるつもりだったのに。俺、全然、準備できてなかった)


 ――午後。教室に戻ってのまとめ活動。


 子どもたちが観察ノートを仕上げている間、陽翔は担任から読み聞かせを頼まれた。

 本は『なつのいちにち』という、人気の絵本。

 一度大学での模擬授業で読んだことがあったから、大丈夫だと思っていた。


 しかし。


「それでね、ぼくは……ぼ、ぼくは……あれ……」


 緊張で声がかすれ、ページをめくる手が震える。

 子どもたちの視線がまっすぐ自分に集まるたび、陽翔の背中を冷たい汗がつたう。


 数分後。読み終わった瞬間、教室は微妙な沈黙に包まれていた。


 ——帰りの会後。


「藤崎先生、ありがとうございました。……ちょっと、今日は反応が薄かったかもですね」


 担任の先生がやんわりとフォローしてくれたが、陽翔にはそれが逆にこたえた。

(……俺の声、ちゃんと届いてなかったんだ)


 ——放課後。実習室の一角。反省ノートを書いている陽翔のペンが止まる。


「先生さあ、なんか元気なかったね」「もっと、楽しく読んでくれればいいのに~」

 廊下から聞こえた子どもたちの声。何気ないつぶやきに、心がざわついた。


(楽しく……俺、そんな風に見えてなかったんだ)


 あんなに準備したのに。本も何度も読んで練習したのに。

 でも現場では、緊張と焦りで、頭が真っ白になってしまった。


 ——夜、帰りの電車。


 車窓の向こう、夕暮れの町がゆっくり流れていく。

 陽翔はスマホを取り出し、何度も開いたり閉じたりする。

 画面には「由愛」の名前。既読にならないトーク画面が続いている。


「今、声を聞いたら……泣きそうだな」


 誰にも言えない、不安。うまくいかない自分。

 それをぶつける勇気すら、今の自分にはなかった。


(俺、本当に“先生”になれるんだろうか)


 ——翌日も、その翌日も、子どもたちの前に立つたびに陽翔は、ほんの少しずつ自信を削られていった。

 教えること、向き合うこと、自分の弱さ……すべてが、逃げ場のない現実だった。


 ——教育実習四日目の朝。


 登校指導の時間。正門前に立って「おはようございます」と子どもたちに声をかけながらも、陽翔の表情はどこかぎこちなかった。


 笑顔を作っているつもりでも、心の中には昨日の失敗の記憶が重くのしかかっていた。

 ――黒板の字が曲がっていた。

 ――説明が早口になり、子どもたちがぽかんとしていた。

 ――質問にうまく返せず、担任の先生がさりげなくフォローしてくれた。


(……もう、全部うまくいかない)


「おはようございます、藤崎先生」


 ふと、前を通った女の子が、はにかみながら挨拶してくれた。

 その声に、陽翔は少しだけ顔を上げたが、すぐに視線を落とした。


(……俺、返せる笑顔を持ってないかもしれない)


 ——午前中の授業。

 今日は理科の「影の動き」の観察。担当は陽翔だった。

 自分で考えたワークシートも配り、準備はしていたはずだった。


 でも。


「ねぇ、“太陽が南の空にあるから影が北側”って、どういうこと?」

「どうして“時間がたつと影が動く”の?」


 子どもたちの素朴な質問に、言葉が出てこない。

 理解させるにはどう説明すればいいか、とっさに思考が止まってしまう。


「それは……えっと……じゃあ先生も一緒に考えてみようか」


 そんな言い方しかできなかった。

 それ以上、踏み込んで説明する自信がなかった。


 ——授業後、職員室。


「悪くはなかったと思います。でも、“問いへの返し方”にもう少しバリエーションがあると、子どもたちの理解も深まりますね」


 担任の先生は柔らかく言ってくれた。でも、陽翔にはそれが“やんわりとした指摘”であることがわかっていた。


「すみません、もっと勉強します……」


 その声は自分でもわかるほど小さくて、情けなかった。


 ——昼休み。校庭の隅のベンチ。

 陽翔は一人、弁当も広げず、ただノートを開いていた。


 そこには、自分の授業の反省と、子どもたちの声、そして浮かんだ疑問がびっしりと書かれている。

 だけど、ページが増えるほどに、彼の目はどこか曇っていった。


(どうして、こうもうまくやれないんだろう)

(大学では、もっと“できてる”つもりだったのに)

(……俺、教師に向いてないのかな)


 そのとき、ふとスマホが震えた。

 由愛からのメッセージだった。


「暑いね、今日も。無理しすぎてない?」


 陽翔は画面をしばらく見つめていた。

 けれど、すぐには返事を打てなかった。


(由愛は、ちゃんとやれてるのかな。クローバーでも、ちゃんと子どもと向き合ってるのかな)

(俺は――何もできてないのに)


 ふとした劣等感と、自分への失望が、胸をしめつける。


 陽翔は深く息を吐いて、ノートを閉じた。

 小さくつぶやく。


「……俺、なにやってんだろうな」


 その声は蝉の声にかき消された。

 でも、確かにそこにあった。

 自信を失っていく、ひとりの“未来の先生”の、静かな葛藤の時間だった。

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