青嶺大学編・第25話【柚木 理紗視点 ― 6月の光と影のあいだで】
青嶺大学編・第25話【柚木 理紗視点 ― 6月の光と影のあいだで】
キャンパスの緑が一段と濃くなる季節。
いつのまにか、日陰を選ばないと座っていられないほど陽射しが強くなっていた。
──なのに、わたしの心の中は、どこか曇り空みたいだった。
「陽翔くん、ここ、ちょっとズレてるかも。あ、私、見てくるね!」
文芸サークルの合宿ミーティング中。
資料のレイアウトや日程調整、みんなが気にしないような細部まで、彼はちゃんと目を通していた。
その姿に、最初は“尊敬”してたんだと思う。
仕事ができて、でも偉そうじゃなくて、少しだけ不器用そうなところも含めて——
気づけば、気になる存在になっていた。
「理紗ちゃんって、陽翔くんとよく話してるよね~、仲いいの?」
そう言われたのは、合宿ミーティングの帰り道。
図書館裏の小道、いつも通りの帰り道で、紫陽花のつぼみがほころび始めた頃だった。
声をかけてきたのは、サークルに入ったばかりの後輩・千紘。
彼女は何の悪気もない笑顔で、私の腕にぴたっとくっついてきた。
「うーん、どうだろ? ただの合宿係ペアだよ」
私はそう返して、曖昧に笑ってみせた。
けれど心のどこかで、その言葉が自分自身に対する“言い訳”に聞こえていた。
ほんとうは──もっと話したかったし、
もっと近づきたかった。
ただの係なんかじゃなくて、もっと“特別”になれたらいいのに、なんて。
思い返せば、少しずつ惹かれていた。
一緒にホワイトボードの前で議論して、気づけば誰よりも長く並んで座るようになって。
一緒に笑った小さな瞬間たちが、心に降り積もっていた。
ミーティングが終わったあと、ちょっと用があるからって理由をつけて残って、
「資料、私、預かっておくよ」って言ったとき。
陽翔くんは、申し訳なさそうに笑って、「助かる。いつもありがとう」って言ってくれた。
その言葉が、胸の奥に残ったまま、なかなか消えてくれない。
──好きなのかもしれない。
そう思った瞬間、鼓動が早くなった。
でも、同時に。
それが“報われる気持ちじゃない”ことも、どこかで分かっていた。
彼には、由愛さんがいる。サークルの中でも有名な、きれいで、優しくて、堂々と彼の隣にいられる人。
比べちゃいけないって思っても、比べてしまう。
「じゃあ、私が陽翔くんのとなりにいた時間って、なんだったんだろう」って、
自分に問いかけてしまう。
──でも、あの目線も、
──名前を呼んでくれた声も、
──紙の端に書かれた小さなメモの字さえも、
私にとっては、どれも“大事”だった。
「……はぁ。ダメだな、私」
誰もいない教室で、そっとつぶやいた。
返ってくる声なんてないのに、ため息だけが天井に消えていった。
それでも。
もしもう少しだけ、“彼の近く”にいられるなら——
この合宿の準備が終わるまでは、ちゃんと頑張りたい。
そんなふうに、自分に言い聞かせた。
(ほんの少しの時間でも、いいから)
そう思ってしまうほど、彼の存在は大きくなっていた。
別の日。
ボランティアの帰り、サークル室に寄ったとき、陽翔と由愛が並んで歩いていく姿が、窓の外に見えた。
二人の間に流れる空気は、他の誰にも入り込めないものだった。
言葉なんて交わしていないのに、気持ちはちゃんと通じてる。
そういうふたりだった。
(……わたしには、届かない場所だ)
はっきり、そう思った。
六月中旬の昼休み。
学食の混雑を避けて、サークル棟の奥の談話スペースに陽翔と並んで座っていた。
テーブルの上には、彼が持ってきた合宿候補地のパンフレットが数枚。
「ここ、海が近いらしい。民宿の人も親切そうだったよ」と言いながら、
彼はタブレットで地図を開き、画面を私のほうへ少し傾けた。
その手の動きが自然で、さりげなくて。
指先の動き一つとっても、妙に意識してしまう。
彼の横顔を見ないようにしているのに、目の端に映ってしまって、
笑ったときの目尻の下がり方まで、無駄に覚えてしまいそうで──
「……あ、ごめん、ちょっと近かった?」
そう言って、彼が少し体を引いた。
それだけのこと。
でも、なぜか胸がチクリと痛んだ。
「……ううん、別に。大丈夫だよ」
そう返した声が、思ったよりも小さくて、
その瞬間、自分の表情がこわばったのがわかった。
(その言い方、まるで“誰か”の目を気にしてるみたいじゃん)
そう思って、つい、周囲を見渡してしまった。
──彼女がいた。
少し離れたテーブル、サークルの女子たちと談笑しながらも、こちらに視線を向けていたのは橘 由愛。
目が合いそうになって、すぐに逸らした。
手元のパンフレットに視線を落としながら、喉の奥がぎゅっと詰まる。
(わかってたよ。陽翔くんの彼女が、由愛さんだって。
ずっと前から知ってたのに……なのに)
──胸の奥が、また、痛んだ。
彼の優しさに触れるたび、それが“誰にでも向けられるもの”だと知るたび、
わたしは勝手に期待して、勝手に落ち込んで。
(だったら、なんであんなに優しくするの。
なんで、わたしにだけじゃない笑顔を向けるの)
そう思ってしまう自分が、どうしようもなく苦しかった。
「理紗ちゃん?」
「あ……ごめん、ちょっと考えごと」
陽翔の声に、慌てて顔を上げる。
彼は怪訝そうな顔をしながらも、それ以上は何も聞かずに、資料に目を戻した。
その沈黙が、やけにやさしくて。
同時に、ものすごく遠く感じた。
パンフレットの中に広がる、青い海と空。
──あの景色の中に、一緒にいる“わたしたち”を少しだけ想像して、
すぐにそのイメージをかき消した。
(そんなの、期待しちゃダメなんだって)
わかってるのに、胸の奥では、まだ波がざわざわと揺れていた。
合宿まで、あと一週間。
準備は佳境に入り、文芸サークルのミーティングも連日続いていた。資料の最終確認、現地での活動スケジュール、食事や持ち物リストのチェック。役割分担の用紙には、わたしと陽翔くんの名前が何度も並んでいた。
「理紗ちゃん、ここのバスの出発時間、再確認お願いできる?」
「うん、大丈夫。明日、民宿に電話してみるね」
そうやって会話を交わすたびに、距離は近づいていく気がする──でも、それ以上は決して踏み越えない線があるのも、分かっていた。
その日は、準備ミーティングのあと、少しだけ残って、レジュメの修正作業を手伝っていた。
もうほとんどのメンバーは帰っていて、部屋には私と陽翔くん、それから――由愛さんがいた。
彼女は別の机で、何か手帳を広げながら静かに過ごしていたけど、たまにこちらの様子をちらっと見ている気配があった。
──やっぱり気づいてるんだろうか。
わたしが、陽翔くんを“特別に”見てることに。
「……理紗ちゃんってさ」
突然、背中越しに、由愛さんが話しかけてきた。
振り返ると、彼女は笑顔だった。でも、その笑顔は、どこか大人びていて、まっすぐで。
「いつも、丁寧だよね。人のために頑張ってて、えらいなって思ってた」
「え……そ、そんなこと……ないよ」
「ううん。ほんとに、そう思うの。……私、ちょっと不器用だから、理紗ちゃんみたいな子が近くにいてくれて、助かってるよ」
その言葉に、胸が詰まった。
“助かってる”って。
“近くにいてくれて”って。
──それって、“陽翔くんの隣”にいるわたしを、ちゃんと見ていたってことだよね。
「ありがとう……ございます」
それしか言えなかった。
目を合わせるのが、怖かった。
だけど、彼女は続けた。
「……陽翔くん、ちょっと天然なとこあるでしょ。だから、気づかないんだよ、たぶん」
「……え?」
「理紗ちゃんが、どんな気持ちでいるのか。……気づかないフリしてるのかもしれないけどね」
由愛さんの声は穏やかで、どこか哀しげで。
わたしの中で、何かが崩れそうになった。
彼女は、全部分かってる。
わたしの気持ちにも、陽翔くんの優しさにも。
そして、自分の“立場”にも。
(そんなの、ずるいよ)
そう思ってしまうわたしも、また、ずるかった。
「……でも、もし理紗ちゃんが、本当に伝えたいなら。私、それを止めるつもりはないよ」
彼女はそう言って、ふわりと笑った。
その笑顔があまりにまっすぐで、強くて、きれいで──
わたしの胸に突き刺さったのは、罪悪感でも嫉妬でもなく、憧れだった。
サークル合宿の計画もまとまり、準備の山場を越えたころ。
理紗は一人、キャンパスのベンチに座っていた。
(好きになっちゃ、だめだったのかな)
最初から、彼には由愛がいた。
それを知っていて、でも“諦めなかった”のは、自分自身だ。
彼の隣に座った日々。
笑って、冗談を言い合って、ほんの少しの期待を抱いた瞬間。
全部、大切だった。全部、ほんとうの気持ちだった。
(ちゃんと、好きだった。……ちゃんと、終わらせよう)
だからこそ、今は——ちゃんと、心に線を引こうと思った。
吹き抜けた初夏の風が、髪を揺らした。
民宿の夜は静かだった。
昼間は川辺での散策やワークショップ、それに班ごとのレクリエーションなんかでわいわい賑やかだったけど、夕食が終わって、入浴の時間も過ぎたあたりになると、急にしんとした空気に包まれる。
廊下をひとり歩きながら、わたしはそっと縁側に出た。
夜風が気持ちよくて、ほんの少しだけ、気持ちが軽くなる。
……だけど、さっき見た光景が、頭から離れなかった。
──陽翔くんと由愛さんが、並んで歩いていた姿。
ほんの数分だったのかもしれない。けれど、ふたりの距離が自然で、安心しきった空気があって、それが……眩しかった。
「……ああ、やっぱり来てた」
振り返ると、そこにいたのは──陽翔くんだった。
手には冷えた麦茶のボトルを持ってて、少しだけ、寝癖みたいに髪が乱れていた。
「……眠れなかった?」
「うん。なんか、目が冴えちゃって。理紗ちゃんも?」
「うん……ちょっと、ね」
一緒に縁側に腰掛ける。
草の匂い。遠くで鳴く虫の声。
そして、ほんの少しだけ距離を取った彼の横顔。
「……なんか、最近、理紗ちゃん元気ない?」
不意に、そう言われた。
心臓が、どきんと跳ねる。
「えっ、そんなこと……ないよ?」
「うーん……でも、前よりちょっと、言葉少なかったりするし」
彼は、こちらを見ないまま、ボトルをくるくると回している。
「もし……俺、なんか嫌なことしちゃってたら、ごめん」
その一言が、胸に突き刺さる。
(ほんと、ずるい人だ……)
こんなふうに、さりげなく気遣ってくれる優しさが、どれだけ残酷か、きっと分かってない。
「……嫌なことなんて、されてないよ。むしろ、優しすぎるくらい」
「え?」
「陽翔くんって、誰にでも優しいでしょ。でもね、それって……ちゃんと自分の立ち位置を分かってないと、人を傷つけちゃうこともあるんだよ」
言ったあと、すごく心臓がばくばくして、手が震えた。
彼は、しばらく黙ってた。驚いたような顔で、こっちを見ていた。
でも、やがて──ふっと目を伏せて、ぽつりと言った。
「……ごめん。気づいてたかもしれない。理紗ちゃんが、俺を……どう見てるかって」
夜風がふたりの間をすり抜けていく。
「でも、由愛と……ちゃんと向き合ってるつもりなんだ。たまに不安にさせてるかもしれないけど、俺、あいつのこと、すごく大事だから」
わたしは、黙って頷いた。
それ以上、言葉は出なかった。
言ってしまったら、泣いてしまいそうだったから。
「……そっか。うん。分かってた、つもりだったよ」
ほんの一瞬だけ、肩が触れた気がした。
でも、すぐに彼は立ち上がって、麦茶を持って、優しく笑った。
「明日、晴れるといいね。合宿、ラスト1日だし」
「……うん、晴れるといいね」
背中を見送ったあと、空を見上げると、月がまるく光っていた。
優しいのに、どこか遠くて──
まるで、彼みたいだなって思った。
(もう、ちゃんと切り替えなきゃ)
そう思えたのは、きっと由愛さんのあの言葉が、わたしの背中を押してくれたから。
――好きだった。
でも、それは“これまで”の話。
明日からは、ちゃんと前を向こう。
少しだけ痛いけど、それでも前を向いて歩いていこう。
いつかまた、あんなふうに誰かを好きになれる日が来ると、信じながら、夜は、少しずつ明けていった。




