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あおはる  作者: 米糠
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大学編・第21話 「夜風にほどけたことば」

大学編・第21話 「夜風にほどけたことば」



 夜の「つばさの家」は、昼間の賑やかさが嘘のように、静かだった。


 子どもたちはみんな布団の中で、小さな寝息をたてていた。保育士さんたちがそっと見回りながら、部屋の明かりも一つずつ落とされていく。


 陽翔は、ウッドデッキに出た。すっかり日が暮れ、あたりはほの暗い藍色に染まっている。空には星がぽつりぽつりと瞬いていて、風が優しく頬をなでた。


 「……おつかれさま」


 後ろから聞こえた声に振り返ると、由愛が小さく笑って立っていた。


 薄手のカーディガンを羽織っていて、風に髪がふわりと揺れる。昼間よりもずっと穏やかな、その表情に、陽翔の胸の奥がふっと和らいだ。


 「今日、ゆいなちゃんとすごく楽しそうだったね」


 「うん。……最初はどう接していいか分からなかったけど、絵本を読んでるうちに、少しずつ距離が近くなっていく感じがしてさ」


 陽翔の声には、言葉にしきれない実感がにじんでいた。


 由愛はとなりに座り、静かにうなずく。


 「子どもって、言葉よりも、ぬくもりとか、目の動きとか、そういうのをちゃんと感じてるんだよね。……あたし、それが分かるまで、けっこう時間かかった」


 「由愛も?」


 「うん。最初、緊張しすぎて、うまく笑えなかった。でも……何回か通ううちに、子どもたちが“今日も来たんだね”って顔をしてくれるようになって」


 ふと、由愛の横顔が月明かりに照らされた。やさしくて、でもどこか不安を抱えたようなその目に、陽翔は目を奪われた。


 「……ここに来ると、なんだか“ちゃんとしなきゃ”って思うんだ」


 ぽつりとこぼれた由愛の言葉に、陽翔は息をのんだ。


 「由愛は、ちゃんとしてるよ。……ずっと、前から」


 「……ありがと。でもね、子どもと向き合ってると、逆に気づかされることも多くて。自分って、まだまだだなって思うの」


 風が、ふたりのあいだをすり抜けていく。


 静寂の中に流れる、その一言一言が、陽翔の胸に深く染み込んでいく。


 「でも、……そんな“まだまだ”な由愛が、俺は好きだよ」


 ふいに告げた言葉に、由愛が目を丸くする。


 夜の静けさに包まれて、しばらくの間、ふたりは黙って空を見上げた。


 その沈黙さえも、どこかあたたかくて、心が寄り添っているように感じられた。



 どこかで小さな風鈴の音が鳴った。

 カラン、とやさしく夜風に揺れて、耳の奥に残る。


「……さっきの、もう一回言って」


 由愛がぽつりとつぶやいた。


 陽翔は一瞬戸惑った。けれど、その横顔を見たとき、ただの冗談でも、気まぐれな言葉でもないことが、すぐにわかった。


 由愛の視線は足元を見つめたまま動かない。けれど指先は、そっと陽翔の袖をつまんでいた。


「“まだまだ”な由愛が……好きだって、言ったんだ」


 夜空の星々が、どこまでも静かに瞬いていた。

 時間が止まったみたいに、ふたりの間に沈黙が降りる。


 けれど、その沈黙が、妙に居心地が悪くなかった。

 鼓動の音だけが、やけに大きく感じられる。


「……そんなふうに、言ってくれるの、ずるいよね」


 ぽつりと漏れた声は、どこか震えていた。


「ずっと、自信なかったの。大学に入ってからも、心理のことを勉強すればするほど、わからなくなることばっかりで」


 由愛は小さく笑った。けれどその笑みは、どこか痛々しくて。


「保育の現場に立ちたいって思うほど、“自分にできるのかな”って不安ばっかり募ってさ。……そんなとき、陽翔がそばにいてくれるのが、ほんとに救いだった」


 陽翔は、由愛の手を取った。

 その手は、かすかに冷たくて、でも繋いだ瞬間、たしかに震えていた。


「不安になるのは、ちゃんと向き合ってるからだよ。……俺、由愛がどれだけ頑張ってるか、誰より知ってる」


 言葉を選ぶのは難しかった。でも、どうしても伝えたかった。


「だからさ、これからも一緒に不安になって、一緒に笑って……」


「……一緒に夢を見ようって、言ってよ」


 遮るように由愛が言った。

 その顔は、うっすらと涙を浮かべながらも、まっすぐ陽翔を見ていた。


「うん。一緒に夢を見よう」


 陽翔の声は、静かだけれど、しっかりとした強さを持っていた。


 ふたりは言葉もなく、繋いだ手を離さずに、夜空を見上げた。


 月がやさしく光を注ぐ。

 子どもたちの眠る部屋からは、微かな寝息が聞こえるだけ。

 世界がゆっくり、少しずつ、ふたりの歩幅に合わせて動き出しているような、そんな夜だった。


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