大学編・第20話 「名前を呼ぶぬくもり」
大学編・第20話 「名前を呼ぶぬくもり」
夕方の光が、廊下のガラス窓を茜色に染めていた。
陽翔は、そっと自分の腕時計を見た。午後五時を少し回った頃。
日中の活気が落ち着き、子どもたちも一人、また一人と、それぞれの場所で静かな時間を過ごし始めていた。
「お兄ちゃん、ちょっとだけ手、貸してくれる?」
背後から声をかけられた。振り返ると、由愛が小さな女の子と手をつないで立っていた。
女の子は、どこか恥ずかしそうに陽翔の顔を見てから、視線を逸らした。
「この子、絵本読みたいって。読んであげられる?」
「もちろん。よかったら、ここで読もうか」
陽翔は、部屋の隅にあるクッションスペースを指さすと、女の子はうなずいて小さく歩き出した。
その子の名前は「ゆいな」。まだ年中さんくらいの、細い腕と柔らかい髪の女の子だった。
クッションの上にちょこんと座ったゆいなは、一冊の絵本を差し出した。
『しろくまちゃんのほっとけーき』。小さな子どもたちに人気の一冊だ。
「ねえ、名前……なんだっけ?」
ゆいなが、少しだけ首を傾けながら聞いてくる。
「陽翔って言うんだ。ふじさき はると」
「……はるとおにいちゃん」
ぎこちなく発音しながらも、どこか嬉しそうな表情。
たったそれだけの言葉に、陽翔の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「じゃあ、ゆいなちゃん。いっしょに読もうか」
ページをめくるたびに、ゆいなはクスクスと笑い、時には「ここ見て!」と指を差す。
絵本の色彩が、部屋の空気をやわらかく包み込んでいく。
(こんな風に、誰かと時間を過ごすだけで、心って少しずつほぐれていくんだな……)
ふと、隣に目を向けると、ゆいなが陽翔の服の袖をつまんでいた。
その手は、ほんのりあたたかく、小さな体から伝わる体温が、まるで春の陽だまりのように感じられた。
「……また、読んでくれる?」
「うん。いつでも、読むよ」
その言葉に、ゆいなの口元がふわっと綻んだ。
はじめて見せた、無邪気でまっすぐな笑顔だった。
——この場所には、まだまだ知らない表情や声がある。
それを一つずつ受け取っていけたら。
そんな気持ちが、陽翔の胸の奥でそっと芽吹いていた。




