大学編・第19話 「小さな声、小さな勇気」
大学編・第19話 「小さな声、小さな勇気」
由愛の奏でたピアノの余韻が、まだリビングにほんのりと残っていた。
子どもたちはそれぞれに感想を言い合ったり、おやつの準備を手伝ったりし始めていて、雰囲気はすっかり柔らかくなっていた。
陽翔はその輪の端で、ほんの少し迷っていた。
目の前には、色とりどりのランドセルが無造作に置かれた空間と、元気な笑い声。
その中に入っていくには、ほんのわずかな「勇気」が必要だった。
(よし……)
自分に言い聞かせるように、陽翔は一歩、前に出た。
その瞬間——
「ねぇ、お兄ちゃんって、サッカーできる?」
不意に声をかけられた。
振り向くと、まだ低学年くらいの男の子がボールを抱えてこちらを見上げていた。
つむじがちょっと右寄りで、声は小さいのに目だけが妙に鋭い。
「ん? ああ、少しはやってたかも。放課後に友達と遊ぶ程度だけど」
陽翔が答えると、その子は少しだけ口角を上げた。
「……ちょっとだけパスしてみる?」
「いいよ、じゃあ……こっち、庭の方でやる?」
男の子はうなずいて、靴を履き直すと、そそくさと庭へ出ていった。
陽翔も続いて庭へ出る。
午後のやわらかな日差しが、青く茂った芝生に落ち、葉の間からちらちらと揺れていた。
「名前、聞いてもいい?」
陽翔が聞くと、男の子は少し間をおいて口を開いた。
「……そうま。二年生」
「そっか、そうまくん。じゃあ、いくよー」
陽翔が軽くパスを出すと、そうまは一歩も動かず、足元に落ちたボールをつんと蹴り返してきた。
(ちょっと様子見って感じか……)
数回パスを交わすうちに、そうまの動きが徐々に柔らかくなっていく。
無表情だった顔に、かすかに「楽しい」がにじみ始める。
「お兄ちゃん、うまいね」
「ありがとう。そうまもなかなかいいキックしてる」
そう言うと、彼は少し照れたようにそっぽを向いた。
そのとき——
「お兄ちゃん……大学生って、なにする人?」
突然の質問だった。
陽翔は少し驚きながらも、彼の目をまっすぐ見て答えた。
「そうだなぁ……いっぱい勉強して、自分がなりたい大人になるための準備をしてる感じ、かな」
そうまは、ボールを足で止めたまま、空を見上げた。
そしてぽつりと、言った。
「ぼく、大人って嫌い。お父さんも、お母さんも、いなくなっちゃったから」
——その一言に、陽翔の心が静かに波打った。
彼の声は淡々としていて、悲しみも怒りも見せなかった。
けれど、その”感情のなさ”が逆に、どれだけの時間をかけてそれを飲み込んできたのかを物語っていた。
陽翔は、しばらく何も言えなかった。
どう言葉を返せばいいのか、すぐには浮かばなかったから。
でも——
「……そうま。今はつらくても、大人になるって、悪いことばかりじゃないよ」
ゆっくりと、言葉を選びながら続ける。
「誰かに優しくしたり、支えたり、そういう大人にもなれる。たぶん俺も、今そうなろうとしてる」
そうまは黙っていた。
けれど、その指先がほんの少しだけ、ボールを前に押し出した。
「……そっか。じゃあ、もう一回パスして」
陽翔の胸に、あたたかくて切ない何かが灯る。
——こういう瞬間のために、ここに来たのかもしれない。
そう思えた。




