大学編・第18話 「子どもたちのまなざし」
大学編・第18話 「子どもたちのまなざし」
午後三時。
校門を抜けてきた数人の子どもたちの姿が、庭の向こうから見えてきた。
ランドセルを背負い、駆け足で門をくぐってくる子もいれば、ゆっくり歩いてくる子もいる。
風に揺れるシャボン玉のように、軽やかで、でもどこか繊細な空気をまとっていた。
「おかえりー!」
玄関の方から、佐伯さんの明るい声が響く。
それに呼応するように、「たっだいまー!」と返す子どもたちの声が重なる。
陽翔と由愛は、奥のリビングルームからそっと様子を見ていた。
まだ紹介されていない、“新しい大人”としての距離感に、どこか踏み出しきれないものがあった。
「緊張するね……」
由愛が隣で小さくつぶやく。
陽翔も頷きながら、内心の高鳴りを押し殺していた。
――どんな子たちなんだろう。
――ちゃんと関われるだろうか。
子どもたちは順にランドセルを置き、おやつの時間になるまで、室内で思い思いに過ごしはじめた。
そのタイミングで、佐伯さんが子どもたちに声をかける。
「みんな、今日から来てくれるお兄さんとお姉さんを紹介するね~」
全員の視線が、一斉にこちらを向いた。
無垢でまっすぐな、でもどこか遠慮がちなまなざしが突き刺さる。
「青嶺大学の藤崎陽翔くんと、橘由愛さん。二人とも、みんなと遊んだり、お手伝いしたりしてくれるから、よろしくね」
「よろしく……お願いします」
陽翔が少し緊張しながら頭を下げると、由愛も続いてぺこりと頭を下げた。
子どもたちの中から、ぱちぱちと拍手が起きた。
けれどそれは、誰かが言ったからする拍手で、まだ”心の距離”があるように感じられた。
小さな女の子が陽翔の方をじっと見つめていた。
目が合うと、彼女はすぐに視線を逸らしてしまう。
――ああ、そうだ。
信頼って、すぐに得られるものじゃない。
頭ではわかっていたけれど、その現実を肌で感じると、陽翔の胸の奥に静かな緊張が根を張るようだった。
「ねえ、お姉ちゃん、ピアノひける?」
そんな中、ひとりの男の子が由愛に近づき、唐突に声をかけた。
背は小さめで、目がくりっとしていて、でもその瞳はどこか試すような光を宿していた。
「えっ……うん、少しだけなら」
由愛が戸惑いながらも答えると、その子はふっと表情を和らげた。
「じゃあ、ひいて。ぼく歌いたい」
由愛が視線を陽翔に送ると、陽翔は小さく頷く。
「うん、行ってきなよ」
由愛はそっと立ち上がり、リビングの隅に置かれた古いアップライトピアノの前に座った。
鍵盤をひとつ鳴らしてみる。少しだけ音がくぐもっているけれど、まだ十分に弾けそうだった。
そして、彼女が奏ではじめたのは、「にじ」。
小学校でもよく歌われる、やさしい旋律のあの歌。
♪にわのシャベルが いちにちぬれて…♪
男の子が少しずつ声を乗せはじめると、他の子どもたちもそばに集まり、輪のようになっていった。
――ああ、すごいな。
陽翔はその光景を、ほんの少し離れたところから見つめていた。
音楽が場の空気を変える。
ひとつの旋律が、心の壁を少しだけやわらかくしていく。
由愛の横顔はとても穏やかで、でもほんの少し緊張の色も残っていた。
きっと彼女も、ひとりひとりとどう関わっていくか、まだ探している最中なのだろう。
やがて歌が終わると、拍手が起きた。
さっきの形式的な拍手とは違う、本物の拍手だった。
「お姉ちゃん、また明日もひいてね!」
そんな声が飛んできて、由愛は少し驚きながらも、やわらかく笑ってうなずいた。
その笑顔を見て、陽翔の胸に小さな灯がともった。
少しずつ、でいい。
今日よりも、明日。
距離が縮まっていけば、それでいいんだ。
陽翔もまた、子どもたちの輪の中へと、一歩足を踏み出した。




