大学編・第17話 「クローバーの扉がひらく日」
大学編・第17話 「クローバーの扉がひらく日」
その日の朝は、少しだけ肌寒かった。
春の陽気が戻ってきたとはいえ、朝晩はまだ冬の名残を引きずっている。
陽翔はデニムジャケットのポケットに手を入れながら、青嶺駅前にある待ち合わせ場所へと歩いていた。
少しだけ早く着いてしまったのは、気が急いていたせいだろう。
彼にとって今日のボランティアは、「子どもと直接関わる現場」になる。
もちろん、まだ何もわからない。自分にできることがあるのかすら、正直不安だった。
それでも、行ってみようと思えたのは――隣に、同じように歩こうとしている人がいるからだ。
「……陽翔くん?」
ふいに、名前を呼ばれて振り返る。
そこにいたのは、薄手のスプリングコートを羽織った由愛だった。
春らしい花模様のストールを軽く首に巻いていて、その装いはどこか優しい雰囲気をまとっている。
「早かったんだね」
「うん。なんか、落ち着かなくて」
そう答えると、由愛はふふっと笑った。
「わかる。私も昨日の夜、緊張しすぎて、荷物何度も詰め直しちゃった」
「それ、俺も。タオルとか、ペンとか……入れては出して、入れては出して」
思わず顔を見合わせて笑う。
そんな何気ないやり取りが、心の緊張を少しずつ溶かしていく。
二人は駅前の小さなカフェでテイクアウトのコーヒーを買い、歩きながら今日の予定を確認した。
「“クローバー”は、駅からバスで20分くらいのところにあるよ。緑の多い静かな住宅地の中で、築年数はちょっと古いけど、居心地はいい場所だって聞いた」
「子どもたちは小学生が中心なんだよね? 学童保育みたいな感じ?」
「うん。でも、家庭の事情が複雑な子もいるって……先生から聞いた」
その言葉に、ふと陽翔の胸の奥が静かにざわめいた。
“複雑な事情”――それがどんなものかは知らない。けれど、そこにはたしかに“言葉にならない何か”がある気がした。
そういう想いに、どう向き合えばいいのか。まだ答えは出ないままだ。
やがてバスに揺られ、静かな住宅街へと辿り着く。
バス停の近くには、手書きの看板が揺れていた。
《こども支援ルーム クローバー》
まるで民家のような建物の門をくぐると、芝生の庭が広がっていた。
砂場と小さな鉄棒、そして少し色褪せたベンチが並ぶ。春の風に揺れる風車の音が、遠くから子どもたちの笑い声に溶けていった。
「……あったかい場所、だね」
由愛がぽつりとつぶやいた。
陽翔も、黙ってうなずく。
ここに来る子どもたちのことは、まだ何も知らない。
けれど、きっと何かを受け取りたくて、あるいは何かを忘れたくて、この場所に集まるのかもしれない。
玄関のドアを開けると、明るい声が出迎えた。
「いらっしゃい、君たちが今日から来てくれる子たちだね!」
出迎えてくれたのは、優しげな笑顔の女性スタッフ。
名札には「佐伯」と書かれていた。
「まずは中を案内するね。子どもたちはまだ学校だから、今のうちにいろいろ準備しておきましょう」
陽翔と由愛はうなずき、靴を脱いで室内へと足を踏み入れた。
その瞬間、ふわっと木の香りが鼻をくすぐった。古いけれど、手入れの行き届いた温かみのある空間。窓辺には色とりどりの折り紙作品が飾られ、小さなテーブルには絵本と色鉛筆が並べられている。
――ここで、子どもたちと過ごすのか。
そう思っただけで、胸の奥に柔らかい何かが芽生える。
それは期待とも、不安とも違う、もっと名前のつけづらい感情だった。
ただ、今、ここにいることだけは、たしかな実感として胸にあった。
陽翔は由愛と目を合わせ、静かに息を吸い込んだ。
「……やってみようか」
「うん。いっしょに、がんばろう」
そうして二人は、「クローバー」の一日を始める準備を整えた。




