大学編・第16話 「ひとつの言葉が、心を映すとき」
大学編・第16話 「ひとつの言葉が、心を映すとき」
陽翔は、少しだけ緊張した面持ちで「ことのは文庫」の部室に足を踏み入れた。
扉の軋む音が、静寂の中に微かに響く。午後の光はすでに傾き始めており、窓の外には春霞に包まれた空が広がっていた。木々の隙間からこぼれる日差しが、ゆっくりと床をなぞるように伸びている。
部室の中は、想像以上に静かだった。
何人かの部員たちがそれぞれの机に向かい、時おりペンを走らせる音と、紙のページをめくる控えめな音だけが、静寂をリズムのように刻んでいる。
陽翔の手には、数日前から少しずつ書き進めていた原稿が握られていた。
何度も推敲したそれは、完成度としてはまだ拙いかもしれない。けれど、たしかに“今の自分”が書いたものだと、そう思えた。
「……来たんだ、陽翔くん」
ふと、陽翔の存在に気づいた久住彩音が、本棚の影から静かに現れた。
いつものように落ち着いた雰囲気をまといながらも、その目にはほんのりとした喜びの色が宿っていた。
白いブラウスの袖を丁寧に折り返し、彼女の指には見慣れた青い万年筆が挟まれている。
「……これ、書いてみたんです」
陽翔は、自分の手の中にある紙をそっと差し出した。
指先がわずかに震えていることに、自分でも気づいていた。
彩音はそれを静かに受け取ると、ほんの一瞬、目を閉じて深く頷いた。
「ありがとう。きっと、あなたにしか書けない言葉が詰まってるんだろうなって、そんな予感がする」
「……そんな大したものじゃないよ。ただ、思ったことを、そのまま言葉にしただけで」
自嘲気味に笑う陽翔に、彩音は優しく微笑んだ。
「それが、一番大事なこと。整った文章より、正直な気持ちの方が、何倍も胸に届くから」
そう言って彼女は、原稿を大切そうにファイルへと挟む。
「このサークルに来る人ってね、きっと皆、自分の中の“声”を見つけたい人なんだと思う」
「……声?」
「うん。誰かに伝えたい気持ちだったり、自分でもまだ言葉にできてない感情だったり。そういう“声”を、少しずつ形にしていく場所。私は、そう思ってる」
その言葉は、陽翔の胸の奥に静かに降りてきた。
“自分の中の声”――
これまで日記や作文で何となく綴ってきたもの。それが、自分にとって何だったのか。今、ようやく輪郭を帯びた気がする。
「陽翔くんの原稿、今度の小冊子に載せてみない? きっと、誰かの心にも触れる気がする」
「……本当に、それでいいのかな」
「いいよ。だって、誰かに届いてほしいって思ったから書いたんでしょう?」
その問いに、陽翔は短く息を吐いてから、小さく頷いた。
「うん。たぶん、そうだと思う」
彩音はそんな陽翔の変化を感じ取ったのか、わずかに目を細めて微笑んだ。
まるで、“はじめの一歩”を見届けた教師のような、静かな誇りを込めて。
夕方、帰り道。
キャンパスを抜ける並木道には、沈みかけた太陽の光が優しく降り注いでいた。
木々の葉の隙間を通り抜ける風が、ほんのりと桜の香りを運んでくる。
陽翔はゆっくりと歩きながら、心の中に残る彩音の言葉を反芻していた。
“誰かに伝えたい気持ち”“自分の中の声”
それはどこか、由愛と過ごしてきた時間とも重なっていた。
あの冬の日、少しずつ近づいた距離。交わした言葉と、手の温もり。すべてが、心の深いところに今も残っている。
ポケットの中のスマートフォンを取り出す。由愛からのメッセージが届いていた。
【ボランティアの準備、私も少し緊張してるけど、がんばろうね】
文字を見た瞬間、肩の力が抜けていくのがわかった。
――自分だけじゃない。誰かと、同じ方向を見て、進んでいる。
胸の奥に、淡く灯った灯火のような感情。
それを言葉にするには、もう少しだけ時間がかかりそうだったけれど――
「……また、書いてみようかな」
呟いた声は、春の風に乗って、並木道に溶けていった。




