大学編・第14話 「春の音、ふたりの距離」
大学編・第14話 「春の音、ふたりの距離」
子どもたちが保護者と一緒に帰っていき、にぎやかだったホールに、少しずつ静けさが戻ってくる。
カラフルな画用紙や折り紙があちこちに散らばり、まだ空気の中に子どもたちの笑い声が名残のように漂っていた。
「よーし、片づけ始めようか」
中原先輩の声に、クローバーのメンバーたちが一斉に動き出す。
由愛は机の上に残されたお絵かき用のクレヨンをひとつずつ拾いながら、そっと空を見上げた。
大きな窓の外には、やわらかな春の日差しが差し込んでいて、木々の葉が風にゆれている。
(……あの子、最後には笑ってくれてよかったな)
ふと、陽翔と目が合った。彼もまた、ホワイトボードを拭きながら、穏やかな顔で頷く。
「なんか、いい時間だったね」
「うん……ちょっと緊張したけど、でも……嬉しかった」
ふたりは並んで、色とりどりの折り紙や画用紙を箱にまとめていく。
手がふと触れて、由愛が小さく指を引っ込めた。その仕草に、陽翔も少しだけ笑った。
「……あの男の子、最後に“ありがとう”って言ってたでしょ? すごく、心に残ってる」
「うん、あの言葉……忘れられないね」
しんと静まったホールの中、ふたりの声だけが柔らかく響く。
少し離れた場所では、知花と笑花が大きな画用紙を丸めながら何かを話して笑っていた。
悠斗はまだ小さな椅子を一生懸命並べ直していて、時折額の汗をぬぐっている。
「なんか、ここに来てから……自分の中の“将来”が、少しずつ形になってく気がする」
陽翔がつぶやいたその言葉に、由愛は手を止めた。
彼を見つめる横顔は、少しだけまぶしく見えて、でも不思議と安心感もあった。
「……私も。まだまだ分からないことだらけだけど、でも……今日みたいな時間を、大事にしていきたいって思えた」
陽翔は由愛の手元を見ながら、小さな紙飛行機を拾い上げた。
それはさっき、男の子が嬉しそうに飛ばしていたもの。少しだけ折れた翼が、今もその空気を覚えているようだった。
「これ……持って帰ろうかな。今日の記念に」
「いいね、それ」
由愛がそっと微笑み、またふたりの距離が少しだけ近づいた。
春の午後、片づけの終わったホールには、夕暮れの光が差し込んでいる。
外では風が木々をゆらし、小鳥たちがさえずる声が聞こえ始めていた。
ふたりの心の中にも、確かに何かが芽吹いていた。
片づけを終えた頃には、空がすっかり茜色に染まっていた。
校舎のガラス窓に夕焼けが映り込み、あたり一面がやわらかな金色に包まれていく。
「じゃあ、私たちこれで帰るねー」
知花が笑顔で手を振り、笑花と一緒に坂道を下っていく。悠斗はそのあとをゆっくり追いかけていった。
ふたりきりになった瞬間、空気が少しだけ変わる。
風が髪を優しく揺らし、どこかで鳥が一羽、木々の間を飛び越えていった。
「……由愛、今日ほんとに頑張ってたね」
陽翔が、隣を歩く彼女にやさしく声をかける。
由愛は少しうつむいて、小さく笑った。
「ありがとう。でも……最初はすごく緊張してたの。子どもたちにどう接したらいいか、分からなくて」
「でも、すぐに笑顔になってたよ。あの子たちも、楽しそうだった」
自販機の前を通り過ぎる時、ふたりの足が自然とゆっくりになる。
「ねぇ、陽翔」
由愛が立ち止まった。
「うん?」
「……今日、あなたがそばにいてくれて、すごく心強かった」
その言葉に、陽翔の胸の奥がじんわりと温かくなる。
何気ない帰り道なのに、世界がふわりとやさしく見えた。
「俺も、由愛がいてくれてよかったよ。……一緒にいると、頑張れる気がするから」
春風がふたりの間をそっと通り抜ける。
まだ少し冷たさを残したその風が、彼女の髪をやさしく揺らした。
ふと、由愛が小さな声でつぶやく。
「……なんか、こんなふうに帰るの、少しだけ……高校の頃を思い出すね」
「うん。あのときも、こうやって……何度も一緒に歩いた」
沈みゆく太陽の光が、ふたりの影を長く伸ばしていく。
影と影が寄り添うように交わりながら、静かに歩を進める。
「これからも、こうやって並んで歩いていけたらいいな」
由愛がぽつりとつぶやいたその声は、風に乗って陽翔の胸に届く。
「……うん。きっと、歩いていけるよ。どんな道でも」
ふたりは顔を見合わせ、小さく笑った。
夕空は少しずつ紫色へと染まりはじめ、遠くで電車の音がかすかに響く。
その音に急かされるように、ふたりはまた歩き出した。
この春のはじまりが、これからの季節をどう彩っていくのかはまだ分からない。
でも、今日の帰り道の温もりは、きっとずっと、忘れない。




