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あおはる  作者: 米糠
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大学編・第9話 「“彼”の言葉に気づいた日」

大学編・第9話 「“彼”の言葉に気づいた日」



 週末の昼下がり。春の陽気に誘われるように、由愛は図書館の一角、静かな閲覧スペースに足を運んだ。


 読みたかった本は、心理学の論文集だった。でも、その日はなぜか手が伸びず、ふと隣に置かれていた、小さな冊子が目に留まった。


 《ことのは文庫 第96号》


 表紙は淡い水彩画で描かれた青空と若葉。どこか懐かしい匂いがした。


 (……陽翔くんが、最近ちょっと気にしてたやつって、これかな)


 由愛はそのまま冊子を手に取り、パラパラとページをめくっていく。


 短編小説、詩、エッセイ――さまざまな学生の“言葉”が、紙の上に静かに並んでいた。


 そして、あるページで指が止まった。


 タイトルは、「あの春、声が風になった」。


 柔らかい文体。どこか不器用で、でもまっすぐな言葉の運び。


 誰かを想って綴られた文章。その“誰か”に、彼女の胸が、ゆっくりと反応していく。


 ――最初に名前を呼ばれたあの日の、少し照れくさいあいさつ。


 ――一緒に歩いた帰り道、無言が気にならなかったあの沈黙。


 ――そして、あの日、好きだと伝えられたときの、鼓動の高鳴り。


 ページの最後に、控えめに記された投稿者の名前。


 「藤崎陽翔」


 指先がぴくりと震えた。


 「……やっぱり、そうだよね」


 胸の奥が、少し苦しくなる。でも、それと同時に、どうしようもなく、嬉しくなった。


 (こんな風に、誰かのことを想って、言葉を綴る陽翔くんが――わたしは、好きなんだ)


 だけど。


 その“誰か”が、自分なのかどうかは、まだわからない。


 それが少しだけ、不安だった。


 でも、問い詰めるような真似はしたくなかった。


 信じたい。ただ、信じたかった。


 (――今度、聞いてみようかな。“ねえ、この文章の中の人って、誰のこと?”って)


 ページをそっと閉じた由愛は、ほんの少し微笑んだ。


 春の風が、開け放たれた窓から吹き抜けていった。




 月曜の午後。講義の合間、陽翔はキャンパスの片隅にあるベンチで、ノートを広げていた。


 ほんの少しだけ、空は霞んでいて、遠くで花粉を運ぶ風が木の枝を揺らしていた。


 「……陽翔くん」


 呼びかけに振り返ると、そこには、冊子を抱えた由愛が立っていた。表紙が、春空色にきらめいて見えた。


 「それ、読んだんだね」


 陽翔の言葉に、由愛は静かに頷く。


 「うん。“ことのは文庫”。図書館で、ふと見つけて」


 それから、彼女は隣に腰を下ろすと、少しだけ言葉を探すように、視線を落とした。


 「……あの短編、書いたの、やっぱり陽翔くんだったんだね」


 「……うん」


 陽翔の答えは、小さな肯定。でも、それだけで由愛には十分だった。


 「優しい文章だった。なんていうか――“誰かを大切に想ってる”ってことが、言葉の奥から伝わってきた」


 由愛はそっと目を伏せて、そして一言――


 「……その“誰か”って、わたし、だったりする?」


 陽翔のペンが止まった。


 風の音と、遠くの笑い声。それがしばらく、会話の代わりを務めていた。


 やがて、陽翔はゆっくりと顔を上げ、由愛の目を見つめる。


 「うん。……最初から、ずっと、君のことを書いてた」


 その瞬間、由愛の頬がほんのり赤く染まった。春の陽射しに照らされて、それはまるで花のようだった。


 「……ありがとう。ちょっと、うれしかった」


 そう言って、彼女は小さく笑った。


 この距離。この静けさ。この風――。


 言葉にできない感情が、ふたりの間にそっと芽生えていた。



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