大学編・第8話 「書いたこと、気づいてくれたこと」
大学編・第8話 「書いたこと、気づいてくれたこと」
日曜日の午後。青嶺大学の図書館は、普段よりも静けさが際立っていた。
高い天井と大きな窓。春の陽がふわりと差し込み、テーブルの上に広げたノートに、やわらかい影を落としている。
陽翔は、そのノートに何度もペンを走らせては、止めて、書き直していた。
(「あの春、あなたの声が、僕の時間を変えた」――…うーん、ちょっとくさいか?)
頭を掻きながら、小さく笑う。
この一週間、講義の合間や帰宅後の時間を使って、久しぶりに文章を書いていた。短いエッセイのような、詩のような、どこか曖昧な形。でも、不思議と苦ではなかった。
むしろ、どこか懐かしい。
中学の頃、作文が褒められて嬉しかったこと。高校時代、ノートの片隅に書きためた文章。それらが、今、ゆっくりと陽翔の中でつながっていく。
「……よし、これで提出してみよう」
小さな達成感と少しの不安を胸に、陽翔はノートのページを閉じた。
*
火曜日の放課後。再び訪れた“ことのは文庫”の部室は、やわらかな読書灯の明かりに包まれていた。
「藤崎くん、いらっしゃい」
彩音先輩は、前回と同じ窓際の席にいて、微笑んだ。
「……持ってきたんです、書いたもの」
「見せてくれる? ありがとう」
陽翔はノートのページをそっと差し出した。彩音は、まっすぐな目でそれを受け取り、ゆっくりと読み始める。
部室の時計の針の音だけが、静かに響いた。
(……変じゃないかな。ちゃんと伝わるかな)
そんな不安を飲み込んで、陽翔は黙って彩音の表情を見守る。
やがて、読み終えた彩音がふっと息をついた。
「……綺麗だった。感情の輪郭が、やわらかくて、でもしっかりしてる。“言葉で誰かを思い出す”って、すごく優しいことだと思う」
「……ありがとうございます」
心の底に、小さく温かい灯がともるような気がした。
「これ、次の冊子に載せてもいい?」
「……えっ、本当に?」
「もちろん。これを読んで、“誰か”の心に少しでも何かが届いたら、それはもう、十分に“書いた意味”になると思う」
その言葉が、陽翔の胸に静かにしみ込んでいった。
*
一方、同じ日の夕方。
学生ホールでひとり、由愛は窓際のベンチに座っていた。
目の前には、紙袋に入ったパンケーキと、陽翔が好きだったカフェオレ。
(少し、話したかっただけなのにな……)
最近、陽翔が講義の後に一緒に帰ることが少なくなった。
理由は聞いていない。でも、なんとなく分かる。
“誰かに導かれるように、何かを始めた”――そんな雰囲気。
――それが、ちょっと、もどかしい。
「……でも、嬉しいのも、ほんの少しあるんだよ」
つぶやいた言葉は、春の風にさらわれていった。




