大学編・第7話 「ことばの扉、そっと開いて」
大学編・第7話 「ことばの扉、そっと開いて」
放課後の青嶺大学キャンパスは、昼間の賑わいが少しだけ落ち着いて、穏やかな空気が流れていた。
講義の疲れがほどよく残る体で、陽翔はゆっくりと歩いていた。手には、掲示板の前でなんとなく撮った一枚の写真――“ことのは文庫 新入部員歓迎会のお知らせ”。
(どうしようかな……)
足が自然と、学生ホール裏の文芸サークルの部室棟へと向かっていた。
春の夕方、まだ日が落ちきらないキャンパスには、柔らかい光が差し込み、芝生の匂いがほんのり漂っている。歩くたびに、靴の裏で小石がかすかに転がる音がする。
その静けさの中、陽翔は部室棟の前に立った。
『文芸サークル ことのは文庫』と手書きで書かれた木製のプレート。その横には、桜の花びらを模した飾りが揺れている。
「……失礼します」
ノックをして、そっと扉を開けると――
小さな部屋の中には、古い木の本棚、コーヒーの香り、そして静かにページをめくる音があった。
「こんにちは」
陽翔が声をかけると、奥の窓際の席から、ひとりの女性が顔を上げた。
栗色の髪をゆるくまとめ、ベージュのカーディガンを羽織ったその人は、どこか落ち着いた雰囲気を纏っていた。
「新入生? 見学かな?」
「はい。あの……文芸サークルに興味があって」
「ようこそ、“ことのは文庫”へ。私は久住彩音。文学部三年。今、このサークルの冊子編集を担当してるの」
彩音はにこやかに笑って、陽翔の目をまっすぐ見た。
「君の名前は?」
「……藤崎陽翔です。教育学部の一年です」
名乗ると、彩音は少しだけ首を傾げて陽翔を見つめた。
「ふうん……藤崎くん。“言葉を書くのが好き”な目をしてるね」
「え……?」
「なんとなく、そう見えた。話し方と、手の仕草とか、目線とか。あ、別にプレッシャーかけてるわけじゃないよ。ここは、書くことが好きな人が、ただ集まる場所。読むだけでも、見学だけでも歓迎してる」
そう言って、彩音は一冊の冊子を差し出した。
『ことのは文庫 第61号』
手に取ると、表紙は薄青の和紙のような質感で、「風のあと、言葉が残る」と手書きのタイトルが添えられていた。
陽翔は、ページをめくる。詩、短編、エッセイ――どれも手作り感のある、けれど丁寧に紡がれた言葉たちだった。
(こういう世界も、あるんだな……)
自然と、胸の奥のほうがあたたかくなる。
「よかったら、君も何か書いてみない?」
彩音の声が、そっと陽翔の背中を押した。
「最初は、日記でも、メモでも、昔の作文でもいい。君の中にある“ことば”を、ここに残してみて」
陽翔は、少しだけ黙ったあと、ゆっくりと頷いた。
「……はい。書いてみたいです」
その一言に、自分でも驚くほど迷いはなかった。
「そう。楽しみにしてるね」
窓の外では、夕暮れの光がきらめき、文芸部の部室は、まるで一冊の本の中の世界のように静かだった。
陽翔の“ことば”が、ここから、少しずつ芽吹き始める。




