青嶺大学編・第1話 「はじまりの春、隣にいる君と」
青嶺大学編・第1話 「はじまりの春、隣にいる君と」
電車を降りて、バスに揺られて十五分。
大きな正門の向こうに広がる、見慣れない風景に胸が少しだけ高鳴った。
青嶺大学。
自然に囲まれたこのキャンパスが、これから俺たちの居場所になる。
春の風はあたたかくて、でもどこか肌をすり抜けるような冷たさもあった。
新生活の期待と、それ以上にじわりと広がる小さな不安。そんな気持ちを映すように、空はやさしい水色をしていた。
「……広いね」
隣を歩く由愛が、立ち止まって言った。
スプリングコートの裾が風に揺れて、淡いピンクのリップが春に似合っている。けれど、その声は少し緊張していた。
「ああ、迷いそう。ていうか、もうちょっと案内地図増やしてくれても良くない?」
笑いながら返すと、由愛もふっと表情を緩めた。
この数日、会うたびにどこかぎこちなくて、お互いちょっとだけ“よそいきの顔”をしていた気がする。
恋人同士でありながら、同じ大学に入ったという事実は、嬉しさと同時に新しい距離感を生んでいた。
「入学式、講堂って書いてあるけど……これ、あの建物かな?」
「うん、あっちのほうじゃない? 人も向かってるし」
桜の花びらがふたりのあいだに舞い降りる。
思わず手を伸ばして、それをすくうように掴んだ。指先に触れた花びらは、少しだけひんやりしていた。
今までと違う。
クラスも、制服もない。
“高校”という決まった枠から外れて、俺たちは今、本当の意味で自由になった。
でもその分、何を選ぶかは自分たち次第だ。
これから、どんな日々が待っているのか──そんなことを考えていた。
講堂の入口で受付を済ませ、席に座る。
式典が始まるまでのあいだ、ふたりは言葉少なに隣にいた。
由愛が小さくつぶやいた。
「……なんだか、始まっちゃったね。ほんとに」
「うん。でも、隣に由愛がいるから、ちょっと安心した」
「……私も、そう思ってた」
照れくさそうに、由愛が微笑んだ。
その笑顔が、ようやく“いつもの由愛”になった気がして、俺もつられて笑った。
やがて、式が始まり、大学の一年が動き出す。
周囲には知らない顔ばかり。でもそのなかに、これから出会っていく仲間や、何かをくれる人がきっといる。
春が、始まった。
入学式が終わる頃には、外の空は少しだけ曇りがかっていた。
それでも、講堂を出た瞬間に肌に触れた風はやわらかで、まるで「ようこそ」と歓迎されているような気さえした。
「……これから、クラス分けのガイダンスだっけ?」
由愛がプリントを見ながら言った。
教育学部の建物はキャンパスの少し奥まった場所にあり、講堂からは徒歩で10分ほどかかる。
桜の咲く並木道を歩きながら、俺たちは少しだけ口数が増えていた。
「でも、“同じクラス”ってことはないよな。課程も違うし」
「うん。私は児童発達、陽翔くんは初等教育だもんね……」
由愛はそう言いながら、すこし寂しそうに目を伏せた。
俺も、心の中にぽつりと穴が開いたような気持ちになった。
高校ではいつも隣にいた。教室で、昼休みで、放課後も──
でも、大学ではそうはいかない。
ただでさえ、キャンパスは広いし、授業だってバラバラだ。
それでも、同じ空の下にいる。
同じ大学に通って、同じ未来を目指してる。
それが、今は何よりの希望だった。
教育学部棟に着くと、受付前にはたくさんの新入生が集まっていた。
緊張した顔、不安そうな顔、はしゃいでいる顔──いろんな表情が入り混じる空間で、俺もつい背筋を伸ばす。
「えっと……俺、1組らしい」
「私は3組だって。……あ、同じ棟内だから、近いかもね」
「うん。よかった」
由愛は小さく笑って、手を振って別の部屋へと向かっていった。
その背中が少し遠く感じたのは、きっと気のせいじゃない。
1組の教室に入ると、すでに何人かの学生が座っていた。
教室の窓から見えるのは、広大な芝生広場。
誰かがフリスビーをしていて、芝の上にはレジャーシートを敷いた先輩たちらしき姿も見える。
「よし……」
小さく息をついて、空いている席に座ると、すぐ隣にひょいと座ってきた男子がいた。
「よう。もしかして、1組?」
「あ、うん。そうだけど……」
「俺も! 中西悠斗って言います。よろしく!」
人懐っこい笑顔と、ラフなパーカー。
雰囲気だけで「話しかけやすい人だ」とわかるタイプだ。
「藤崎陽翔。よろしく……」
「おっけーおっけー! 陽翔くん、って呼ぶね。あ、タメでいい?」
「……うん。大丈夫」
この感じ──高校の最初のクラス替えを思い出す。
でも、どこか違う。相手も“教師を目指す”っていう同じ志を持ってる。それが、言葉にしなくても伝わってくる。
そしてこの出会いが、思っていた以上に自分にとって大きな意味を持つことになる。
そんな予感が、この春の空気の中に、微かに漂っていた。
初めての教室──「児童発達課程・3組」と書かれたプレートを見つめながら、由愛はそっと深呼吸をした。
緊張していないと言えば嘘になる。でも、どこか心は落ち着いていた。
この春、自分の夢に少し近づいた気がしていたから。
教室に入ると、ふわりと花の香りのような、あたたかい空気が漂っていた。
明るい陽射しが窓から差し込み、柔らかく反射して床を照らしている。
まだ誰も座っていない一番前の窓際に、由愛はそっと腰を下ろした。
しばらくして、教室の扉が開き、明るい声が響く。
「わ〜、この教室かわいい〜! ……あっ、こんにちは!」
第一声で由愛の顔がほころぶ。
入ってきたのは、少し茶色がかったふわふわのボブヘアに、ピンクのリボン付きバッグを抱えた女の子だった。
彼女はまっすぐ由愛の席に来て、にこっと笑った。
「隣、いいかな?」
「うん。どうぞ」
「やった。ありがとう。あたし、佐倉知花。保育士志望で、地元の保育園の娘なんだ〜」
「保育園の……? すごいね」
「ううん、ぜんぜん。小さい頃から子どもと遊ぶのが好きでさ〜。……あ、あなたは?」
「橘由愛。……私も、子どもに関わる仕事をしたくて、ここに来たの」
「へぇ〜! 名前もかわいいね、由愛ちゃん!」
ぱあっと目を輝かせる知花に、由愛もつられて笑ってしまった。
こういうタイプの子、ちょっと苦手かもって思っていたのに──
彼女の自然な明るさは、心の中の緊張を少しずつほぐしてくれる。
その後も数人が入ってきて、教室は少しずつ賑やかになっていく。
そして──
「おっはよー! 間に合った!」
ぱたぱたと走ってきたのは、地元出身っぽい、明るい茶髪の女の子だった。
軽やかなステップで教室を一望したあと、知花の後ろの席に腰を下ろす。
「えへへ、私、望月笑花! 地元民だから、いろいろ案内するよ〜。よろしくねっ」
「望月笑花ちゃん……? ありがとう。私、橘由愛っていいます」
「ゆめちゃん、だね! いい名前〜! 覚えやすくてラッキー!」
元気いっぱいに手を伸ばしてくる彼女に、由愛も思わず握手で返した。
その瞬間、小さな不安がひとつ、またひとつと解けていく。
新しいクラス、新しい出会い。
もう陽翔とは同じ教室ではないけれど、きっと、この場所にも“かけがえのない日々”がある。
──そして、ふと。
(陽翔くん、どんな子と出会ってるのかな……)
由愛は窓の外を見つめながら、少しだけ胸をきゅっとさせた。




