164.それぞれの現実
164.それぞれの現実
八月の終わり。
夏休みが終盤に差しかかる頃、陽翔は市内の予備校で模試を受けていた。
会場の教室はエアコンの冷気と緊張感でひんやりしていて、静まり返った中で鉛筆の走る音だけが響いている。
――難しい。
そう思ったのは、国語の記述問題。
文章を読む力には自信があったはずなのに、設問の意図がつかめず、時間ばかりが過ぎていく。
焦りが手に汗をにじませ、解答欄に書いた文字が滲む。
(これが……現実か)
インターンでは充実感も得た。人と関わる仕事への手応えもあった。
でも、それと「学力」は別だった。
自分が目指そうとしている大学、しかも教育学部となれば、思っていたよりもずっと高い壁がある。
模試を終えて外に出た陽翔は、陽が傾き始めた街並みに目を細めながら、スマホを開いた。
【由愛:おつかれさま! 模試どうだった?】
【由愛:私は午前の部、けっこうできたかも】
数分前に届いたLINEのメッセージ。
陽翔はすぐに返信を打ち込もうとして、指を止めた。
(……「できなかった」って言いたくないな)
返信は簡単だった。でも、素直な気持ちをどう言えばいいか分からなかった。
由愛はきっと、もうすでにしっかり前を向いてる。
自分とは違って、現実に手が届いてる。
そんなふうに感じてしまう自分が、少しだけ情けなかった。
結局、「おつかれ。俺はまぁまぁかな。暑いし、かき氷でも行く?」とだけ返して、スマホをポケットにしまった。
数日後の午後。
ふたりは、いつもの図書館の静かな閲覧スペースで隣に座っていた。
「ねえ、今度の三者面談……どうだった?」
由愛が小声で問いかける。
「んー、まあ……普通。推薦は厳しいって言われた」
「そうなんだ……」
由愛も、自分の成績や進路に関してあまり多くは語らない。けれど、表情の端々から、それなりの手応えを感じているのは分かる。
「由愛は?」
「……推薦、出してもらえそう。学校の先生も、すごく応援してくれて」
その言葉に、陽翔は頷いて「よかったな」と笑ってみせたけれど、胸の奥に小さなざらつきが残った。
ふたりで同じ夢を目指す。
それは確かに、強い絆だった。
でも――その道のりにある距離が、少しずつ浮き彫りになっていく。
図書館を出て帰り道、ふたりは無言のまま並んで歩いていた。
夏の終わりを告げる風が、ほんの少し冷たかった。
「……大丈夫?」
由愛が不意に問いかける。
「え?」
「陽翔くん、最近ちょっとだけ、顔が曇ってる気がするから」
そう言われて、陽翔は立ち止まり、空を見上げた。
夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと流れていく。
「由愛は、どんどん先に進んでる感じがするんだ。俺は……まだ迷ってばかりで、焦ってるだけで」
ぽつりとこぼすように言う。
由愛は一瞬、何かを言いかけたけれど、黙って陽翔の手を取った。
「一緒に進もうよ。私、陽翔くんと同じ未来に行きたい」
その手のぬくもりが、陽翔の胸にじんわりと染みこんでいく。
焦りも、不安も、全部なくなったわけじゃない。
でも、隣にこの手がある限り、前に進める。きっと大丈夫だと、信じられた。
少しだけ顔を上げて、陽翔は微笑んだ。
「……ありがと。俺も、絶対追いつくから」
そうして、ふたりは再び歩き出した。
季節は秋へと向かいながら、ふたりの進路も、少しずつ現実の輪郭を帯びていく。




