162.すれ違いの先に
162.すれ違いの先に
七月の終わり、梅雨明けと共にやってきた本格的な夏の気配。セミの鳴き声が窓の外で響き渡る午後、陽翔は由愛に向き合って言った。
「……実は、夏休みに地方のインターンに参加することになったんだ」
由愛は一瞬、驚いた顔を見せた後、すぐに微笑んで返した。
「そっか。陽翔くん、頑張ってるもんね。……すごいよ」
でも、その笑顔の裏に、小さな不安が隠れているのを、陽翔は感じ取っていた。
「一週間くらい、地元も離れるけど……毎日連絡はする。離れてても、ちゃんと話したい」
「うん、わかってるよ。……でもちょっと、寂しいかも」
由愛はそう言って、少しだけ目を伏せた。
陽翔の挑戦を応援したい気持ちは、本物だ。でも、毎日顔を合わせていた日常が突然変わることに、少しだけ胸がざわついていた。
夏休みを前にした夜、陽翔と由愛は、校舎裏の静かなベンチに並んで座っていた。
「……明日、朝早くに出発なんだ」
陽翔がそう言うと、由愛は小さく頷いた。
「うん。ちゃんと、応援してるよ」
そう口にしながらも、その横顔はどこか不安げで、どちらからともなく沈黙が流れる。
「……実はちょっと、怖いんだ」
ぽつりと陽翔がこぼした。
「初めての土地で、知らない人たちの中で、自分がどれだけ通用するのか。……不安で、眠れそうにない」
その言葉に、由愛はそっと彼の手を握った。
「……陽翔くんは、ちゃんと頑張ってる。だから、大丈夫。自分を信じて。……私も信じてるから」
その手を強く握り返し、陽翔は微笑んだ。
「ありがとう。……離れる前に、ちゃんと伝えたかったんだ。これ」
彼は鞄の中から、小さな封筒を取り出す。淡いブルーの封筒に、控えめな文字で《由愛へ》と書かれていた。
「手紙……?」
「うん。出発してからじゃ落ち着かないと思って。インターン中はすぐ返せないこともあるかもしれないけど、気持ちはずっと……」
由愛は、ふっと表情を緩めた。
「……ありがとう。私も、書いてきたんだ」
由愛も、制服のポケットから、小さな桜色の封筒を差し出した。
ふたりは互いに手紙を交換すると、目を合わせて少し照れたように笑った。
そして、ふと風が吹き抜けた瞬間──由愛は少し身を寄せ、陽翔の頬にそっと口づけを落とした。
「行ってらっしゃい。……頑張ってきてね」
その温もりに、陽翔の胸がいっぱいになる。
「うん。……行ってくる」
翌朝、陽翔は新幹線に乗り込んだ。見送りに来てくれた由愛の姿を、車窓からしばらく目で追い続ける。
(大丈夫。ちゃんと帰ってくる。もっと成長して、また彼女の隣に立てるように)
インターン先での研修は想像以上に忙しく、思うようにスマホに触れない日もあった。
【お疲れさま。今日はどんな一日だった?】
【読んでくれたら、それだけで嬉しいからね】
由愛からのLINEがいくつも届いていたが、未読のまま積み重なっていく。やっと返信できた夜、陽翔は申し訳なさそうに文面を綴る。
【ごめん、バタバタで返事遅れた。元気だよ。あと少しで終わるから、また話せるの楽しみにしてる】
由愛はそのメッセージを見て、小さく息を吐いた。
(わかってる……わかってるけど……)
由愛は自室の机に向かいながら、彼からのメッセージを何度も読み返していた。
応援したい。でも、少しずつ大人になっていく陽翔の背中が遠くに感じて、ふいに涙がにじんだ。
そんな二人の距離は、物理的には遠くなっても、心の奥ではより強く結びつこうとしていた。
インターン最終日、陽翔は駅の改札を抜けた。
陽の落ちかけた夕暮れの空。駅前のロータリーには、蝉の声と遠くの風鈴の音が溶けていた。
そして、改札の向こう──制服姿の由愛が立っていた。
「由愛!」
陽翔が声を上げた瞬間、彼女は駆け出した。
すれ違う人をよけながら、一直線に陽翔の胸へ飛び込む。
「おかえり……っ!」
「ただいま」
ぎゅっと抱きしめ合ったまま、二人は笑い、そして泣いた。
すれ違いも、不安も、言葉にできなかった想いも、全部、夕暮れに溶けていく。
「会いたかった」
「私も……」
こうして、ふたりはまた並んで歩き出す。
ほんの少し大人になって、でも変わらずに隣で笑い合いながら。




