155.波紋のはじまり
155.波紋のはじまり
六月、梅雨明けの空はどこまでも高く、湿った空気の中にもほんの少し、夏の匂いが混じり始めていた。
放課後の教室。陽翔は自分の机でノートを広げ、進路希望調査の用紙に目を通していた。目指したい道は少しずつ形になってきているけれど、それを言葉にするのはまだ難しい。ふとペンを止めて外を見やると、夕方の光が窓から差し込んで、床に淡いオレンジの模様を描いていた。
「藤崎くん、進路……もう決まってる?」
その声に振り向くと、そこにはクラスメイトの長谷川奏音が立っていた。栗色のセミロングが肩のあたりでゆれて、真剣なまなざしがまっすぐこちらを向いている。
「あ……まあ、だいたいは。でも、まだ考えてる途中」
「そうなんだ。……よかったら、ちょっとだけ聞いてもいい?」
奏音はおずおずとした様子で、空いていた隣の席に腰を下ろした。陽翔は少し戸惑いながらも頷く。
「うん、大丈夫。俺でよければ」
それからしばらくのあいだ、ふたりは静かに言葉を交わした。奏音が目指している進路の話、得意な教科、迷っている理由。そして、そんな中で陽翔の話に耳を傾けながら、何度も「すごいね」と頷く姿があった。
陽翔にとっては、あくまで真面目な相談。でも、第三者の目には少しだけ――特に由愛には――距離が近く見えたのかもしれない。
――後ろのドア付近からその様子を見つめていた由愛は、教室に入るタイミングを一瞬だけためらった。
(……私、何を気にしてるんだろ)
そう思いながらも、胸の奥で小さくざわつく感情を、うまく言葉にできない。陽翔を信じていないわけじゃない。ただ、あの笑顔、あの声、あの時間を“自分以外の誰か”と共有していることに、知らず知らず心が反応してしまうのだ。
けれど、表情には出さない。いつものように軽く笑って、陽翔の机に歩み寄った。
「陽翔、お疲れさま。……帰ろっか?」
そう声をかけたとき、陽翔はすぐに顔を上げて、どこかほっとしたように笑った。
「ああ、うん。ちょうど終わったとこ」
奏音も笑顔で立ち上がる。
「ありがとう、藤崎くん。すごく参考になったよ」
由愛に軽く会釈して、奏音は席を離れた。その背中を、由愛は静かに見つめていた。
(私……なに、こんなことで不安になってるのかな)
そんな自問とともに、陽翔と並んで歩き出す。手のひらの距離が、いつもより少しだけ意識された。




