154.変わりゆく日々、重なる胸の奥
154.変わりゆく日々、重なる胸の奥
五月の半ば。中間テストが近づき、教室には勉強ムードが漂い始めていた。
由愛は、放課後の図書室で英語の問題集を広げていた。対面に座るクラスメイトの女子たちは、時折参考書を見せ合いながら話している。
「ねえ、由愛ちゃん、わかる? この文法の使い方」
「うん、たぶんここは——…」
にこやかに説明しながらも、由愛の視線は、ときどきスマホの通知を確認する。
(陽翔くん、今日はまだ返信ないな……)
思えば、最近は忙しそうだった。はっきりとはわからないけれど、彼が“何か”を考え始めていることは、なんとなく感じ取っていた。
けれど、それが何なのかはまだ知らない。
彼が何かに悩んでいるのなら、寄り添いたい。だけど、聞けずにいる自分にも、少しだけもどかしさが募っていく。
一方その頃、陽翔は購買前のベンチに座り、ノートを開いたままぼんやりと空を見上げていた。
(……時間が足りない)
進路調査の用紙が、かばんのポケットに入ったままになっている。将来やりたいことは、まだ曖昧だ。けれど、最近ふと浮かぶのは——
(好きなことを仕事にするって、どういう意味なんだろう)
最近は友達に数学を教えて感謝されるのが嬉しくて、先生になろうかなどと思っていたが、何か違うような気もしている。
そういえば、昔小さい頃は、文を書くのが好きだった。物語や詩、何かを綴ることに夢中になったこともある。
でも、それを将来に結びつけて考えるには、まだ怖さもあった。
「このこと……言ってないな、まだ」
由愛に、まだ自分の“夢”の話をしていない。
もし笑われたら? もし反応に困らせたら?
そんな弱気な自分を、嫌というほど自覚していた。
その日、ふたりはメッセージだけをやり取りして、帰り道は別々だった。
「明日、屋上行けそう?」
「うん、大丈夫。お昼一緒にいこ」
その短いやりとりの画面を見つめながら、互いの胸には同じ思いがあった。
(もっとちゃんと、向き合いたい)
(もっと、あなたのことを知りたい)
なのに、それがうまく言葉にならない。
季節は確実に夏へと向かっているのに、心の中には少しずつ、見えない“距離”が積もり始めていた。
昼休み。陽翔は、校舎の屋上へと続く階段を一歩ずつ登っていた。
ドアを開けると、初夏の風が吹き抜ける。目の前には、すでに屋上のベンチに腰掛けている由愛の姿があった。
彼女は制服のリボンを少しだけ緩め、スカートの上で手を組んでいた。陽翔の気配に気づくと、ふわりと顔を上げて、少しだけ笑った。
「来てくれて、ありがとう」
「……ううん。こっちこそ」
ふたりは並んで座った。手には、それぞれ購買で買ったパンと飲み物。
しばらくの間、風の音だけがふたりを包む。
「ねえ、陽翔くん」
「ん?」
「最近……何か悩んでる?」
問いかけは、柔らかく、でもまっすぐだった。
陽翔は、少し目を伏せたまま、手元の缶コーヒーを見つめる。
「……ちょっとだけ、進路のこと。まだ迷っててさ」
由愛は、すぐに何かを言わず、彼の言葉の続きを待った。
「夢って言えるほどのものじゃないんだけど……俺、書くことが好きなんだ。昔から、ノートに物語書いたり、詩みたいなこと考えたり。たぶん、それがずっと好きだったんだと思う」
彼の声には、ためらいとほんの少しの熱が混じっていた。
「でも、そんなので食っていけるのかって思うと……怖い。現実的じゃないって、自分で思っちゃうし」
由愛は、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
「怖いって思ってるのに、誰にも言わずにひとりで悩んでたの?」
「……うん。言ったら、期待されるか、笑われるか、どっちかだと思ってた」
ふっと風が、ふたりの髪を揺らした。
由愛は、静かに首を横に振る。
「私は、陽翔くんのこと、笑ったりしないよ」
「……」
「だって、夢を口にするのって、すごく勇気のいることだもん。怖いのに、それでも話してくれて、嬉しいって思った」
陽翔の目が、由愛を見た。
彼女の瞳には、まっすぐな信頼と、ほんの少し潤んだ光が宿っていた。
「私もね、歌のこと……まだ悩んでる。音大に進もうと思ってるけど、どこまで本気になれるか、どこまで続けていけるか、自信はない。でも……好きな気持ちは、本当なの」
「……うん」
「だから、陽翔くんの“好き”も、ちゃんと大事にしてほしい。誰かに決められるものじゃないし、もしうまくいかなくても、きっとそれが次につながるから」
陽翔は、小さく笑った。
「……ありがとう。やっと、ちょっと肩の荷が下りた」
由愛も、ほっとしたように息を吐いた。
「私も。……やっぱり、ちゃんと話せてよかった」
昼の鐘が鳴り、ふたりは席を立つ。
屋上のドアをくぐる直前、陽翔は小さな声で呟いた。
「俺、もう少し……本気で夢のこと、考えてみるよ」
「うん。応援するね。どんな未来でも、私は隣にいるから」
ふたりの影が重なって、静かに校舎の中へと消えていった。




