152.小さなすれ違い、大きな確かさ
152.小さなすれ違い、大きな確かさ
春休みも半ばを過ぎたある日。陽翔は自室の机に向かって、問題集とにらめっこしていた。
窓の外では、柔らかい陽射しが午後の街を照らしている。だけど、その温もりが胸まで届くことはなかった。
机の上のスマホには、既読のまま返信のないメッセージ。
——「明日、もし時間あったら図書館、一緒に行かない?」
由愛からの返事は、もう二時間以上なかった。
(どうしたんだろ……急に、予定が入ったとか?)
いつもなら、些細なことと思えたかもしれない。でも今日は違った。
進路の話をしてからというもの、ふたりの会話のなかに、少しずつ“未来”が混じるようになっていた。それは悪いことじゃない。だけど、知らず知らずのうちに、陽翔は焦っていた。
このまま、同じ方向を向いていられるのだろうか——と。
一方その頃、由愛は自宅のピアノの前で手を止めていた。
楽譜の中の細かい指示に、ふと目が滲む。練習の手が止まり、スマホの画面を見つめる。
陽翔からの誘いは、嬉しかった。けれど……今日は、どうしても向き合わなければならない面談があった。音大を目指すことについて、両親と、ようやく本音で話す時間。
(本当は……行きたかった。会って、顔を見て話したかった)
でも、言えなかった。弱さも、迷いも、彼には見せたくなかった。
陽翔は、もう夢に向かって走り出している。その姿に、胸を張って並びたい。だからこそ——今は会えなかった。
すれ違い。それは、好きだからこその不器用さ。
その夜、陽翔のスマホに由愛からメッセージが届いた。
——「ごめん、今日は行けなかった。また、ちゃんと話したいな」
その一文を見て、陽翔の胸の奥が、じんと熱くなった。
会いたい、話したいという気持ちは、ふたりの中にちゃんと生きていた。
“変わるもの”があっても、“変わらないもの”がここにある——そう信じたくなる夜だった。
春休みの終わりが近づいた午後、桜の蕾が膨らみ始めた並木道を、陽翔は歩いていた。
手には、連絡をくれた由愛からの「会えないかな?」というメッセージ。待ち合わせは、小さな川沿いの公園。ふたりが一年生の頃、よく寄り道した場所だった。
公園のベンチに、由愛はすでに座っていた。淡いピンクの春のコート、風になびく髪。その横顔は、どこか迷いと決意を共に宿しているようで、陽翔はそっと歩み寄った。
「待たせた?」
由愛は振り返り、少し照れたように笑った。
「ううん。私も今、来たところ」
そう言って、ふたりは並んでベンチに座る。柔らかな風が頬を撫でた。
「……この前、図書館行けなくてごめんね」
先に口を開いたのは、由愛だった。
「いや、俺こそ。返信なくて、ちょっと不安になってた」
正直に言葉を重ねる陽翔に、由愛は静かにうなずく。
「私、ちょっと逃げてたんだ。音大の話、ちゃんと親に伝えるのが怖くて……それで陽翔くんにも、ちゃんと向き合えなかった」
小さな声。だけど、震えてはいなかった。
「でも、話したの。やっと、ちゃんと。父も母も驚いてたけど……応援してくれるって」
「そっか……よかった」
陽翔は心からの笑顔で言った。
「由愛が、自分のやりたいことをちゃんと選んだって聞いて、俺も嬉しいよ」
由愛は、その言葉にほっとしたように目を伏せ、少しだけ寄り添った。
「ねえ、陽翔くん。……私、うまくいくかわかんない。でもね、それでもこの夢を大事にしたいって思えたのは、陽翔くんのおかげなんだ」
「俺もだよ。正直、迷うことばかりだった。でも、由愛がいつもそばにいてくれたから、前に進もうって思えた」
春の風が、二人の間をそっと包む。
交わされる言葉一つひとつが、互いの心に根を下ろしていく。
「じゃあさ——これからも、もしつまずいてもさ。俺たち、お互いのこと支え合っていこうよ」
その言葉に、由愛は涙ぐみながら微笑んだ。
「うん……ずっと、そばにいるね」
春の空はどこまでも青く澄み、ふたりの未来に、やわらかな希望の光を射していた。




