151.春の足音、ふたりの時間
151.春の足音、ふたりの時間
季節は少しずつ冬の名残を脱ぎ捨て、春の足音が聞こえ始めていた。
二年生として過ごす最後の一ヶ月。教室には、卒業を目前にした三年生を見送る空気と、進級を目前にした落ち着かない空気が同居していた。
陽翔は窓際の席で、静かにノートをめくっていた。ふと顔を上げると、教室の外では部活動の声がちらほらと聞こえ、どこか穏やかな放課後の匂いが漂っていた。
「陽翔くん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、由愛だった。放課後の光に照らされた彼女は、どこか照れたような、それでいてしっかりとした眼差しをしていた。
「一緒に……帰らない?」
「もちろん」
ふたりは並んで下駄箱を抜け、校門を出た。まだ冷たい風が頬を撫でたが、気のせいか、それも少し柔らかくなったように感じる。
「発表会のあと、ありがとうね」
由愛が小さく言う。
「ううん、こっちこそ。あの音、ずっと心に残ってるよ」
言葉の余韻がしばらく残り、やがて由愛がふっと笑う。
「ねえ、陽翔くんは……三年になったら、同じクラスがいいって思う?」
「……うん。できるなら、また一緒のクラスがいいなって思ってる。でも、どこでも、俺は由愛のそばにいたいよ」
その答えに、由愛はほっとしたようにうなずいた。
「私も。……でもね、ちょっと怖いの。高校生活もあと一年って思うと、どうしても“終わり”が浮かんじゃって……」
陽翔は立ち止まり、由愛の方を向いた。
「由愛。たしかに、あと一年かもしれない。でも……俺たちの関係に、“終わり”なんてない。進路がどうなっても、距離ができても、ちゃんと想い続けるよ。だから、由愛も……怖がらなくていい」
由愛は一瞬だけ目を伏せたあと、静かにうなずき、そっと陽翔の手を取った。
それはまだ不確かな未来へ向かう、ふたりの静かな決意だった。
三月の終業式。講堂には、厳かな空気とどこか寂しさの混じったざわめきが満ちていた。
壇上では、卒業生代表が穏やかに、でも時折声を震わせながら挨拶をしていた。陽翔はその言葉のひとつひとつを、静かに聞いていた。
(あと一年。次は、俺たちの番か……)
隣に座る由愛は、前を見つめたまま、小さく呼吸を整えるように胸元に手を添えていた。その横顔はどこか切なく、美しかった。
式が終わると、三年生たちは拍手に包まれながら教室へと戻っていった。花束を抱え、後輩たちに声をかけられながら笑っている姿が、どこか眩しく見える。
その日の放課後、校舎の裏手の中庭にふたりで足を運んだ。
まだ肌寒い風が吹くなか、沈丁花の花の香りがほんのりと漂っている。
「……ねえ、陽翔くん。卒業式って、やっぱり寂しいね」
由愛がぽつりとつぶやく。
「うん。でも、なんか……希望もある。送り出す側になって、次は自分たちが未来に向かうんだなって、ちょっとだけ思えた」
陽翔のその言葉に、由愛は少し驚いたように目を見開いて、すぐに笑った。
「……変わったね、陽翔くん。すごく頼もしくなった」
「そうかな。でもたぶん、それは由愛のおかげだよ」
ふたりの視線が重なる。言葉よりも、心が通じ合う瞬間だった。
春休みは、もうすぐそこに来ていた。
春休みの午後、風はまだ冷たさを残していたけれど、空はやわらかな光を帯びていた。
陽翔は、駅前のカフェのテラス席で、手帳と参考書を広げていた。隣には由愛。二人きりの時間は、静かで、でもどこか特別だった。
「ねえ、陽翔くんって……志望校、もう決めた?」
ふいに由愛が問いかける。彼女の指先は、ホットココアのカップを撫でながら揺れていた。
「……うん。一応、第一志望はここって決めた。都内の国立。教育学部」
「そっか。先生、目指すんだよね」
由愛は笑った。でもその笑顔はどこか、寂しげで——
「由愛は? 音大……やっぱり?」
「……うん。行けたらね。でも、実力も経済的にも、まだ不安だらけ」
陽翔はその言葉に、何かを察するように目を細めた。
彼女の夢は、歌を続けること。そのために必要な努力も、彼はそばで見てきた。だけど——夢を追うことは、ときに現実との綱引きになる。
「……応援してる。ずっと。だから、迷っても、俺に話して」
由愛はうなずいた。ゆっくりと、小さく。
「ありがとう。でもね、怖いの。夢を選ぶことで……陽翔くんとの時間が、変わってしまうんじゃないかって」
胸の奥を掴まれるような不安。それを正直に口にした由愛に、陽翔は迷いなく答えた。
「大丈夫。たとえ離れる時間ができても……俺たちは繋がってるよ。ずっと」
春の風がふたりの間をふわりと通り抜ける。
その言葉は、やさしくも、強く、由愛の胸に刻まれた。




